メディアの話、その70。スマートフォンの次のメディアは、どこでもディスプレイ。

スマートフォンの最大の革命は、インターネットと人々をワイヤレスでつなげたこと。すでに、我々は、スマホとネットのおかげでエスパーになった。世界の知と常時接続されており、世界のサービスと常時接続されているのだから。

なのに、ちっとも利口になった気にならないのはなぜか?

それは、どこでも持っていけるスマートフォンの長所が、そのまま短所でもあるからだ。

理由は、「画面が小さすぎること」。以上である。

人間の視野は、半円状の広さを持つ。対するスマホは、10センチ✖️5センチの小さな画面のみ。インターネットの向こうの芳醇な知は、この小さな画面がボトルネックとなり、必ず目詰まりを起こす。

スマホは、同時に複数の画面を見ることができない。

たくさんの情報をいっぺんに一覧することもできない。

結果、スマホを介した情報のやりとりは、メディアも個人もどんどんこの小さな画面に最適化する。

短いキャッチフレーズ。扇情的なコピーライティング。「味方に優しく」「敵に冷たいたい」断言的で、二項対立な物言い。スマホは、人々を小さな部族社会に分断し、内輪同士が固まり、意に添わぬ相手を断罪する空間を作り出す。

かつて、電気的mediaの普及は、世界を近代活字文化による個人主義の空間から、部族社会的な地球村=グローバルビレッジに変えていく、とマーシャル・マクルーハンは予想した。

予想は半分あたり、半分外れた。電気的メディア、インターネットとスマートフォンの普及は、我々を部族社会に引き戻した。ただし、みんなが集う大きな村=グローバルビレッジではなく、150人の小さな村へ。

スマホの「短所」を解消しつつ、スマホの「長所」を生かす、次のメディア設計はどうなるか。

おそらく「どこでもディスプレイ」という概念がカギになる。

既存の液晶ディスプレイはどんどん大きくやすくなり、いずれ有機ELも普及する。

すると、どうなるか。

個人宅、オフィス、学校、公共空間、カフェ、バー、ゲームセンター、駅。あらゆる場所のあらゆる壁がディスプレイになる。

個人は、スマホ的端末を携帯しながら、小さな画面だけじゃなく、あらゆるところに偏在するディスプレイにアクセスする。

そう、ディスプレイを持ち歩くのではない。どこにでもあるディスプレイにアクセスするようになる。

携帯できる巨大ディスプレイ。それは、ホログラフィーなどではなく、案外、どこでもディスプレイではないか。

当たるかな?

続きます。


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