メディアの話、その32。ウルトラマンとレイチェルカーソンと不思議、大好き。

SFの話をする。2回する。今回は1回目。

私が子供のころ、1960年代から70年代にかけて、というのは、とにかくSFがブームだった。子供と若者はSFが好き、ということになっていた。

ウルトラマンはそのころ生まれた。

私は世代的にリアルタイムで初回から見ていた。

どうでもいい話だが、ウルトラマンはSFか。SF=サイエンスフィクションか。

定義というのは、概念というのは、常にあとからやってくる。

この場合、先にウルトラマンである。SFというハコにいれるかどうかは、そのあとの話。

まったく新しいものというのは、定義のしようがないから新しい。音楽の世界でプレスリーやビートルズが出てきたときもそうだったはずだ。定義のしようがない新しい音楽だから「大人」が怒り出したりしたわけだ、破廉恥だ、けしからん、と。

ウルトラマンは破格であった。ゴジラみたいに怪獣が出てくるドラマはあったけど、巨大な超人と怪獣が毎週毎週戦うのである。

「怪獣」が出てきて、科学特捜隊の戦闘機が出てきて、たいして役に立たなくて、ウルトラマンが変身してでてきて、そこらへんのビルとかをぶっこわしながら「怪獣」をやっつける。毎週やっつける、というのが、実に楽しくって興奮させられた。おそらく全国の子供が同じ興奮を味わったのだろう。だから、大ヒットした。

そういえば、いま「アンナチュラル」というドラマがやっていて、石原ひとみさんと市川実日子さんが解剖医をやっていて、そのチームの名前が不自然死究明研究所(unnatural death Investigation laboratory)=通称UDIラボ、ていうんだけど、あれ、完全に「怪獣番組」ですよね。

主役2人は「シン・ゴジラ」コンビだし。松尾豊さんはどう見ても「隊長」。井浦新さんは「コンドルのジョー」とか「神隼人」とか「クールでアウトローキャラ」。毎週「怪獣」的事件が起きて、すったもんだあって解決。面白いです。怪獣出さずに怪獣番組やっている。意図してやってるんだろうなあ。

話を戻す。

というわけで、ウルトラマンは、子供からすると、毎週ゴジラのような怪獣が出てきて、そこらへんの海とか港とか山とかをぶっつぶしてくれて、ビルなんかをなぎ倒してくれて、楽しいわけである。海とか港とか山とかビルは、子供たちにとっては「退屈な日常」である。毎日、通学のときに見ている風景である。そこに、もし巨大な怪獣がやってきたら、「おっかない」けど「たのしい」。恐怖と歓喜がセット。感情の痛点を刺激すると、人間は楽しくなっちゃう。あんまり怖いと楽しくなっちゃう。

私がいちばん最初に記憶にある夢は、3歳のころ。横浜の会社の社宅寮で1人で留守番をしていた。父も母もいない。すると、目の前にバルタン星人が出てきた。バルタン星人は窓際の左手にいた。すると、右手にウルトラセブンが出てきた。台所の手前である。バルタン星人は、ふぉふぉふぉとハサミを上下に動かし、ウルトラセブンはワイドショットをバルタン星人に浴びせる。ちょうど真ん中で私はこの光景を見ている。夢の中だから、バルタン星人とウルトラセブンが戦っているのを仰ぎ見る自分をさらにうしろから見ている。夢には色がついていなくて、うっすら青いモノトーン。

以上である。特にオチもなにもない。夢ってだいたいそういうものである。

バルタン星人が出てきたときに、怖いと夢の中の私は思ったかというと、怖いはなかった。あ、バルタンだ、と思った。ウルトラセブンが出てきたときには、おや、違うぞ、と思った。バルタン星人と戦うのはウルトラマンじゃないか、と思った。3歳の私がそう思ったことを、なぜかずっと覚えている。子供というのは、案外ディテールにこだわる。

これが最初に見た夢。というか、覚えている最初の夢。夢に出てくるような存在だったわけだ。バルタン星人にしろ、ウルトラセブンにしろ。

なぜ夢に出てきたかというと、たぶん驚いたからですね。ウルトラマンを見て。驚いた。で、その驚きが好きになっちゃった。

英語でいうと、センス・オブ・ワンダーである。

レイチェル・カーソンの書籍のタイトルでもある。

ウルトラマンは、SFかどうか、以前に、子供にとって、センス・オブ・ワンダーであった。

子供にとって、日常の風景に、巨大な怪獣が出てきたり、巨人が出ていちゃう、というのは、ワンダー=驚きなのであった。

もちろん、ひとにとってワンダーはいろいろなところにひそんでいる。

レイチェル・カーソンは、自分の別荘の近所に広がる森や海岸の日常的な自然のなかに、姪の息子と一緒に歩きながら、ワンダー=不思議を見つけていく。

こういうワンダーも私は子供の頃から大好きで、だからいまでもしょっちゅう三浦半島の小網代に入っているのだけど。

ウルトラマンが子供の心をとらえたのは、そこにセンス・オブ・ワンダーがあったからである。

ワンダーをみつけだすセンス、というのは、人間のなかに共通して備わっている感覚だ。年をとって減っちゃうような気もするけれど、それはセンス・オブ・ワンダーが減るんじゃなくて、そのセンスをいろいろな知識や偏見が経験値という名で覆い隠しちゃうからにすぎない、と私は思う。

センス・オブ・ワンダーがあるやなしや。

ワンダーなきものに、ひとは熱狂しない。ただし、そのワンダーを見出すためには、素材をほったらかしちゃダメ。日常から、ワンダーを自ら見つけるのは結構大変だ。

日常からワンダーを見つけるひと。

それが、サイエンティストであり、アーティストである、と私は思う。

そして、アーティストがみつけてかたちにしたワンダーを、私たちのセンスはたとえば怪獣番組というかたちで知覚する。

いずれによせ、潜在的なワンダーを誰の目にも見える方にするには、「編集」作業が必要なのです。

そういえば、「センス・オブ・ワンダー」をもっとも素敵な日本語にしたのは、糸井重里さんの「不思議、大好き。」ですね。

続きます。

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