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メディアの話、その45。竜と水神と雨乞いと。


その昔、竜を見たことがある。


中学2年生のときのことだから、40年も昔の話だ。
夏のはじめだったと思う。私の家は、浜松の田舎の田んぼのへりの住宅街にあった。最寄りの電車の駅は1キロほど離れていて、電車に乗るときは、駅まで歩いていた。
その日、夕方から雨が降り始め、夜になると雨足が強まった。
「お父さん、傘持っていなかったわね。駅まで傘を持っていくわ」
母親は夕ご飯がすむと、すぐに雨降る中を傘を指して駅を目指した。
母親が家を出たあと、窓の外が昼間のように明るくなり、数秒後、凄まじい轟音がうえから落ちてきた。
雷だ。
こりゃ、あぶない。
私が行ってどうなるというわけでもないが、傘を指して、私は母親のあとを追うことにした。
雨は凄まじい量で降り注ぎ、数歩も歩くと、足元は池に落ちたようにびしょ濡れになった。そして今度は自分の向かう先の田んぼの真ん中に、天空からじぐざぐの光が一瞬落ちてきて、大地を引き裂くようなばりばりという音が轟いた。直後、周囲の電灯の光がふっと消えて、あたりは真っ暗になった。ときどき稲妻が光ると、そのときだけ景色が見渡せる。
田んぼの中の1本道を歩いていた私は、急に恐ろしくなった。
まずい。このままだと稲妻の標的だ。私はかけだして、とにかく駅へと向かった。数百メートルほど走ると、シャッターを閉めた酒屋の軒先で雨宿りしている母親を見つけた。
「お、だいじょうぶ?」「だいじょうぶだけど、でられないわねえ」
母親の隣についたとたん、また雷が落ちた。
巨大なフラッシュをたいたように周囲が明るくなり、耳が痛くなるような雷鳴が轟く。

ますますでられない。

私たち親子は酒屋の軒先で、とりあえず雷が通り過ぎるのを待つことにした。

雷は通り過ぎる気配を一切見せなかった。

雨足はますます激しさを増し、アスファルトの道路を叩く音が派手に鳴り響く。

そして。

私は、竜をみた。

豪雨が降り注ぐ天を仰ぐと、そこに竜がいた。

音もなく、昼間より明るく、紫がかった光を発しながら、低く垂れ込めた雲のあいだをのたうちまわる、いくつもの首を持った竜。

直後、暗闇に包まれたかと思うと、数秒後、再び、空は明るく光り、竜はかたちを変えて、雲間を優雅に泳ぐ。

母親がひとことつぶやく。「竜」。

彼女にも見えたのか。

あれは間違いなく「竜」だ。

人々の足を釘付けにし、怒りの雷を地に落とし、天を光に染め、空を舞う。

「竜」は美しかった。そして圧倒的に強かった。私と母親は、ほとんど何もしゃべらず、天空の「竜」を見つめ続けた。

1時間後、「竜」は去った。

雨足は収まり、雲は動き、夏の星空が覗いた。草むらからは、虫の声がし始めた。私と母親は駅へと向かい、やはり足止めをくらっていた父親に、結局使う必要がなくなった傘をわたし、そして家へと戻った。

30年後、私は「竜」と再会を果たす。

三浦半島小網代の谷。

この谷は、60年代まで棚田が並んでいた。

その後、棚田は打ち捨てられ、現在は手入れをされた湿原に変わっている。

小網代の谷の支流の奥。

誰も立ち入らなくなった、藪が深く茂った流れの脇に、ひっそりと苔むしながら佇んでいる石のつくりもの。

水神様だ。

小網代の谷に流れる水はすべて雨水だ。かつての棚田にたたえられていた水も雨水だ。雨水が足りないと、棚田は枯れる。水が枯れれば稲も枯れる。

おそらく小網代の谷で棚田をつくっていたひとびとは、祈っただろう。

ときどき雨が降りますように。田んぼの水が枯れないように。

ひとびとは谷の奥に、水神様を祀った。

この水神様に出会ったとき、私の脳裏に、あのときの豪雨の空を駆け巡る「竜」の姿が蘇った。

水神様は、竜だ。

竜が祀られている。

なぜ、竜なのか。

なぜ、竜が水の神様なのか。

小網代の苔むす水神様を見て、私は瞬時に理解した。

あのおっかない「竜」は、雷とともに豊富な水をもたらした。

ひとびとは、おそれ、そして喜んだ。

ああ、田んぼが枯れずに済んだと。

かつて竜は存在したのだ。

比喩でもなんでもなく、

恐ろしい力を持った雷として、

暮らしに欠かせない雨をもたらす水神様として。

石造りの水神様というメディアが、私に竜の存在を教えてくれた。

人によっては、小さな石1つが、メディアになることがある。

続きます。

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