メディアの話、その31。風景を編集して観光地にする。

「日本は退屈な国」。
欧米人アンケートの衝撃結果に挑む観光庁の勝算
/https://www.msn.com/ja-jp/news/money/ar-BBJ8Yor?ocid=sf
ノンフィクションライターの窪田順生さんが執筆した、ダイヤモンドオンラインの記事のタイトルである。


「観光庁がドイツ、英国、フランス、米国、カナダ、オーストラリアの6ヵ国を対象に、海外旅行に関するアンケート調査を実施したところ、「日本には『富士山』『桜』『寺』があるくらいで、長期間滞在する旅行先としては退屈だと思われていること」(田村長官)が判明したというのだ」
と、この記事にはある。

ふむ。

私の意見はちょっと違う。

記事の内容に、ではない。
旅行先として退屈だと思っているのは、「欧米人」だけではない。
なにより、当の日本人の大半が、旅行先としての日本の大半の土地を、退屈だと思っている。つまり、この話は、まず日本人に向けてなされるべき内容なのである。

だって、退屈じゃないですか?

なぜ、退屈か。

それは、日本の風景の大半が「編集」されていないからである。
「編集」されなければ、「観光」の場にはならない。


「観光」とは、「風景」を編集して「メディアコンテンツ」にすることである。そして、けっこう勘違いされやすいのだけど、よっぽどの絶景でもない限り、ほとんどの「風景」は、「編集」されない限り、9割以上の人が見過ごしてしまう、ただの「背景」なのだ。


日本には、すばらしい「風景」が山ほどある。
ただし、あくまで潜在的に、である。

だからまず最初に風景を発見しなければならない。
次のその風景の「切り口」を考えてなければならない。

さらに、メディアコンテンツとして編集しなければならない。

仕上げに広報しなければならない。

その結果、人が集まったときはじめて、「風景」は「観光地」になる。

いま、当たり前のように「観光地」として賑わっている「風景」の多くは、誰かがその魅力を見つけて、切り口を考えて、編集してコンテンツにして、広報した結果できたものだ。


たとえば。
東京でゼネコンだの不動産屋だのの力をまったく借りずに90年代以降、一気に人気観光地となったところがある。
谷根千だ。

文京区の、谷中、根津、千駄木。

不忍通りに平行して流れる藍染川のくねくねした暗渠沿いの下町通り。

もともとメジャーな名店があったわけでもないし、大型商業施設があったわけでもないし、誰もが知る名所史跡があったわけでもない。昔ながらの下町が延々と並んでいる。あえていうならば、それだけの街である。

その谷根千、いまや、休日はもちろん平日も昼間からたくさんの観光客が、たいがいはデジカメ片手にそぞろ歩き、店をのぞき、コロッケを買い、記念撮影をし、腰塚ハムのコンビーフをお土産にする(あれ、本当に美味しいです)。階段のうえは、インスタ映え定番スポットである。

ただし、90年代に入るまで、ここに観光客が押し寄せることはなかった。

そもそも「谷根千」という呼び名も世間にはほとんど流通していなかった。

名編集者で知られる森まゆみさんが、地元の仲間たちとともに、80年代に「谷根千」という地域ミニコミ誌をつくり、こつこつとこの地の魅力を発信し続けた。電通も博報堂もついていない。フライシュマンもついていない。

その、地道だけど、実に魅力的なミニコミ誌である「谷根千」の情報発信が飛び火をし、『東京人』のような雑誌がとりあげるようになり、新聞が取材するようになり、バブル崩壊後の90年代の東京において、温故知新のように「谷根千」という「風景」が、「観光地」になった。

そう、森まゆみさんたちが、文京区の下町通りの見立てを行い、編集をしてコンテンツにし、広報し続けた結果として、いまの「谷根千」がある。

「谷根千」ブームはしかも一過性で終わらなかった。80年代後半にさびれていた(当時東京中をうろうろしていたのですごく実感がある)浅草や、神楽坂、雑司が谷といった、谷根千とつらなる匂いのする下町が、後を追うように、再コンテンツ化され、かつて以上の新しい賑わいを呼ぶようになった。

「谷根千」の編集が伝播した、と私は個人的に思っている。90年代のもっとも優れた都市開発、観光開発は、お台場でもなければ、六本木ヒルズでもない。ビルを1つも立てずに、観光施設を1つも誘致せずに、「見立ての編集だけ」で、朽ちようとしていた下町を観光地とした、「谷根千」がダントツの成功事例である。

「見立て」が「観光」につながる、という意味で、もしかすると80年代以降のパイオニアは、赤瀬川原平さんかもしれない。赤瀬川さんが、藤森照信さんや南伸坊さん、松田哲夫さんらと始めた「路上観察」は、ある意味であらゆる場所を、「見立て」ひとつで「観光地」に変えてしまう、という「大発明」を行った。「路上観察」という「見立て」のメガネを手に入れたものは、一見どんなにつまらない町に行こうと、観光ができちゃう。なにせ、「観察」すればいいのだから。

赤瀬川さんの「見立て」ひとつで対象を「観光地」にする、という手法の極北は、「超芸術トマソン」だろう。

つぶれてしまった風呂屋の煙突。外階段が外されて、2階に浮かんでいる扉。扉が漆喰で埋められて、階段だけになってしまった「純粋階段」。

人間が利用意図を持って作った人工物が、その利用意図をはぎとられた瞬間、つまり不要のものとなった瞬間、意図せざる「芸術」に昇華する。

そんな「芸術」に、赤瀬川さんは、巨人軍に鳴り物入りで入団し三振の山を築いたアメリカ人バッター、トマソンの名を冠し、ひとが意図して作る芸術を超えた「超芸術トマソン」と名付けた。

気づいた方もいらっしゃるだろう。

いま、「ブラタモリ」をはじめとする散歩番組や散歩コンテンツの源流は、はっきり80年代の赤瀬川原平さんの「見立て」と「編集」の直接的な影響下にある。

ただし。この赤瀬川さんの「見立てのメガネ」は誰もが持てるわけではやはりない。

だからこそ、こうしたメガネを所有できる「風景の編集者」たちが、そう、森まゆみさんのように、自分の愛する場所を編集してはじめて、メガネを持たぬ通りすがりの客でも楽しめる「観光地」はつくることができるのだ。

赤瀬川原平さんが「トマソン」という概念を発明するまで、廃ビルに残された階段に注目するひとはいなかった。


森まゆみさんが「谷根千」というミニコミをこつこつと発信していなかっら、谷中・根津・千駄木の下町が、観光客で埋まることもなかった。

東京の街の多くは、無粋でかつ本質的な意味において街の市場価値を理解しない金は一流、腕は四流の開発者たちになぎ倒され、無粋な墓石みたいなビルの並ぶ、開発に失敗した地方の駅前みたいな状態になっていたはずだ。

ちなみに、広島の原爆ドームをそのまま残して「観光」資源にすることで、ひとがたくさん集まるようにし、原爆の悲劇を忘れないようにしよう、と計画し、実行したのはかの丹下健三だ。

ずいぶん反対もあったという。でも、原爆ドームを「積極的に見せる」というプレゼンを丹下健三が通さなかったら、広島が原爆の悲劇の象徴として世界的に共有される度合いはいまより小さかったかもしれない。

原爆の爆風でも残ったあのドームを象徴と見立てて、ひとの流れを編集したことで、日本の、世界のメディアがあのドームの映像を写真を報道した。つまり結果として広報をした。原爆ドームを「観光」化したことで、広島はHIROSHIMAとなった。そして、絶対に忘れられることのない、原爆の悲劇を伝える場所となった。

丹下健三が編集者として力を振るった結果である。
 
その土地その土地の必然的な見立てと編集と広報を行うこと。

で、まず欧米人のまえに、日本人自身が注目すること、面白がってくれること、訪れてくれること。

せっかくいい風景があるのに、おいしいものがとれるのに、歴史ある建造物があるのに、すばらしい自然があるのに、なぜ観光客が少ないんだろう。そんな疑問と悩みを持つ「観光地」になり損ねた地域のひとたちは、たくさんいるはずだ。

そんな場所は、まだ風景が編集されていないのである。

じゃあ、どうすれば「編集」できるのか?

続きます。

答えはね、・・・わかりません。わからないけど、ひとつ重要なのは、いま目の前にある風景や自然や建造物だけじゃなく、その場所の背負ってきた「時間」という軸を、観光価値の中に練り込んでいく、ということにある、と思っております。
 

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