メディアの話、その39。中動態と受信するメディアとしての私たち。

音楽における「長調」と「短調」は、文法における「能動」と「受動」にとっても似ている。そして、長調と短調を超えたインド音楽のように、かつて能動態と受動態のあいだには、中動態があった。メディアについても、発信のほうにばかり目を向けちゃダメ。受信と編集のほうが、案外重要だぜ。

今回は、そんなお話。

先日、指揮者の大野友士さんに習った。

音楽の世界における「長調」と「短調」について。

たのしげな長調。かなしげな短調。

私たちは、長調と短調を瞬時に聞き分けられる。

楽曲は通常この2つのどちらかに分類される。1つの曲のところどころで転調することで、曲のストーリーを変えたりすることもあるが、それができるのも、たのしげな長調、かなしげな短調、という音楽の文法を、私たちが繰り返し「教育」されてきたからである。

この音楽の文法をつくったのは、西洋で、ドレミの7音階がベースになっている。

でも、音はそもそも7つの音階に分かれているわけじゃない。連続した音階をデジタルに7等分したのが7音階だ。

私たちは、この7音階という文法でできた長調と単調に明確に区分けされた曲を生まれた時から延々聞かされ続けている。もしかすると、言語の文法以上に、世界共通であらゆる人々に刷り込まれている文法は、7音階と長調短調かもしれない。だから、世界中の誰もが、長調を聞けばたのしげに、短調をきけばかなしげに、と共通の反応ができる。

すごいことである。DNAに刻まれていない文化遺伝子=ミームとしては最強かもしれない。

ところが、インドの音楽などは200音階あるという。だから、インド音楽に長調も短調もない。2つは連続して入り混じる。インド音楽のあの奇妙な、麻薬的な、楽しさと悲しさとこっけいさがいりまじった響きは、7つの音階で「長調」か「短調」かを迫る西洋音楽と別のシステムから生まれていたというわけだ。そして、7音階文法で耳を教育されてきた私たちは、「奇妙」に聞こえるわけだ。

音の分け方の話は、色の分け方とも似ている。そういえば、日本人は虹を7色と「見立てる」が、西洋では虹を5色と「見立てる」と聞いたことがある。音に関しては7つでも、虹については5つ。夜が長いせいか。関係ないか。

さて、この音楽のことを大野さんに教わってから、ここでずっと描いてきたメディアについて、考えを改めないといけないことに私は気づいた。

これまで語られてきたメディアの概念は、ものすごく西洋の文法がもたらした思考に縛られているのではないか、ということに気づいたのである。

メディアとは何か。

もう何度も繰り返しちゃうけど、メディアとは、媒体である。中間にあるものである。つまり外部から情報を受信し、なんらかの思考に基づき、その情報を編集し、加工し、なにかに仕立て上げ、今度は発信する。この一連の流れを行う主体を、私たちは通常メディアと呼ぶ。つまり、メディアとは、人間が常に行っている、情報の受信から思考・編集・加工、そして発信にいたるプロセスそのものを指すわけである。この個人の行っているプロセスを組織化し、法人化すると、マスメディアになる。やってることは基本的に個人のそれとおんなじである。

ここまではいい。

ここから先が問題である(私的に、であるが)。

つまりだ、私たちが「メディア」という言葉を使うとき、実際に指すのはこの「受信→編集→発信」のプロセス全体ではない。あくまで「発信」とその「発信」したコンテンツのことを「メディア」と称している。通常そうである。「受信」する側を、私たちは「メディア」と呼ばない。受信する側はあくまで「視聴者」である。

これは、インターネットが登場してから、マスメディアがなかば解体し、「だれでもメディア」の時代になってからにおいても、変わっていなかった。あらゆるひとがメディアになる、というのは、あくまであらゆるひとが「情報発信者」となれるようになった、ということを指していた。インターネットやSNSやスマホがそれを実現した。

じゃあ、受信のほうはというと、昔からだれもがなんでも受信していた。私たちは、マスメディアのコンテンツをいつでもどこでも受信していた。受信に関しては、私たちは大ベテランである。プロフェッショナルである。ところが、発信についてはそうでなかった。なぜなら、発信という「能動的行為」には、積極的な訓練とテクニックと才能とシステムとが必要だったからである。

ところが「メディア」とくくると、私たちは自分たちの受信行為を鑑みないようにする。「メディア」論でくくられる受信の話は、あくまで「視聴者」であり「消費者」であり「一般大衆」である。ものすごーく上から目線である。つまり、メディアは発信者のものであり、受信者はあくまで一消費者にすぎない。そんな思考がベースにある。

でも、受信なき発信はありえない。だって、コンテンツをつくれませんからね、受信をしなければ。だから、ほんとうは、いろいろな情報を受信すること、コンテンツを消費すること、外部からの刺激を楽しむこと。これもまた、「メディア」的行為なのだ。しかも、とっても重要な。

なぜならば、メディアの発信者は必ず受信者の側面を持っている。

いや、優秀な発信者はまず優秀な受信者である。それは、優秀な生産者が必ず優秀な消費者であるのと同様に。

大半のひとは、いちいち受信をしても発信しないかもしれない。でもそんなたくさんの受信者がいてはじめて、発信者のメディアコンテンツは報われる。ということはだ。発信は一部の人間のメディア行為だが、受信はすべての人間のメディア行為、ということになる。受信がなきメディアはただのひとりごとである。いうなれば、メディアは、ひとびとが受信することではじめて成立するプロセスなのだ。

インターネットがそのハードルを下げ、誰もが能動的に発信できるようになった。結果、マスメディアは相対的に衰退し、あるいはビジネスモデルの変更を迫られ、情報の流通の総量のなかで、個人発信の情報が圧倒的に増えていくようになった。

でも、この流れのなかで、情報の「受信者」たる私たちの存在は、「メディア」という切り口で語られることはない。

なぜだろう。いま、説明したように、情報の受信こそがメディアという概念を成立させるキーである。にもかかわらず、私たちは情報の発信のみがメディア行為だと信じている。

理由は明白だ。それは、受信者としての私たちの存在は、「受動的」だからである。

メディアのプロセス、受信→編集→発信、は、受動的→能動的という、西洋的な動詞の文法と相似形である。

そして、私たちは、この受動と能動という西洋の文法に、結構脳みそを支配されている。受動と能動の区分けは、まさに私たちの思考と行動を支配する文化遺伝子=ミームである。

例を出す。

「なにをやればいいのかわからないんです」と若いひとが自分の目的のなさを嘆いたりする。よくありますよね。

これに対して年上のひとがいう。

「もっと能動的に生きろよ」「好きなことをやればいいんだよ」

これまたよくありますよね。

でも、この場合、なぜ若いひとが「なにをやればいいのかわからない」のか。それは、彼が「能動的じゃない」からではない。たいがいそうじゃない。単に「受信する」経験、インプットの総量が不足しているだけだったりするのだ。

インプットの総量の少ない若いひとに「能動的に生きろ」「好きなことをやれ」という指導はおろかである。

こういうおろかな指導をする年上のひとに共通するのは、そのひとのなかに、人生の歩き方は「能動的」な生き方が正しくて「受動的」なのは意志薄弱で、弱っちい、ダメなやり方なんだ、という「信仰」がある、ということだ。

そして、この信仰のもとにあるのが、あらゆる行動を「能動」と「受動」に二分する西洋の文法というミームと、それをベースに思考することを訓練されてきた私たちの脳みそである。

まさに、音楽における7音階と長調短調とが、私たちの音楽に対する感じ方を支配しているように。

インプットのたりない若いひとはどうすればいいか。

インプットを増やせばいい。

どう増やせばいいか。「好きなものをインプットしろ」は禁句である。なぜならば、「好きなものをインプットしろ」ということ自体が能動的だからである。この場合、なんでもいいから「受動的」な道を選べ。状況に流されろ。頼まれたら断るな。誰かにいわれたままにしろ。とりあえず働け。

案外そんなものである。つまりだ。きっかけはなんでもいい。「能動信仰」を捨てて、受動的にとりあえずきたものをなんでもいいから吸収する。受動的になし崩し的に吸収する。そのうち、やっぱりダメなもの、嫌いなものが出てくる。あるいは、とっても気になるもの、好きなものが出てくる。あるいは、別に好きじゃないけど、得意なものが出てくる。

能動的に動くのは、それからでいい。

以上の私の説明にも実はインチキが隠されている。

というのも、受動と能動をデジタルに切り離しているからである。

現実はそんなわけはない。人間という主体は、何かを受動的に受信して、自分の中で編集して、能動的に発信する。このプロセスは連続的で、ぶちぶち切れているものじゃない。デジタルじゃなくって、アナログ。西洋音楽的ではなく、インド音楽的。

ほんとうは、受動的と能動的のあいだになにかがある。

この話を、メディアとしての人間の話にもういちど置き換えて考えてみる。メディア(としての人間)は、なにかを受信して、すぐに発信するわけじゃない。必ず受信してから「編集」がある。己の思考があり、受信した対象とのやりとりがあり、偶然や必然や経験が重なり、受信した何かが加工される。その加工されたなにかを、発信する。これがメディアのプロセスである。

人間そのものの行動もおなじはずである。

受動と能動という動詞のあいだには、受信と発信のあいだにある「編集」とおなじなにかがあるはずなのだ。

ものすごーく我田引水な読み方なんだけど、私のいまの御託には、元ネタがある。というか、これを書いているうちに、ああ、あの本の話とつながるんじゃないの、と自分の中でばちん、となにかが合体した。

『中動態の世界』。執筆者は、國分功一郎さんである。


https://www.amazon.co.jp/dp/4260031570

昨年の小林秀雄賞を受賞した名著。ぜひ買って読んでください。

國分さんは教えてくれる。

現在の西洋文法は、動詞を能動と受動に分ける。ところがかつて、能動態と受動態のあいだの態があった。「中動態」である。

「する」と「される」のあいだがある。

実例を國分さんは、「現代ビジネス」に寄せたエッセイでこう語る。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51348

誤解を恐れずに単純化して言うと、中動態というのは、「する」と「される」の外側にあるものです。私たちは様々なことを、「する」(能動)か「される」(受動)に分類してしまいます。しかし、かつてはこの分類に入りきらないものをきちんと認める文法が存在していました。

「謝る」や「仲直りする」は、まさしく、「する」と「される」の分類では説明できないものです。

「私が謝罪する」という文は能動態です。しかし、実際には私が能動的に謝罪するのではない。私がどれだけ自分の「能動性」を発揮しようとも、謝罪することはできません。なぜならば、自分の心の中に「私が悪かった」という気持ちが現れることが重要だからです。

(以上、現代ビジネスより引用)

「謝る」や「仲直りする」という行為は、ひとりでは成り立たない。

謝る自分がいて、謝られる相手がいてはじめて成り立つ。そして、自分と相手のあいだのなかで、自分のなかで「私が悪かった」という気持ちがたちあがってはじめて、形式ではなく、実質として「謝る」という行為は完結する。これは、能動か受動か、の二者択一では説明できない。

あるいは「歩く」という行為は、能動的か受動的か。私たちは能動的に歩いているつもりだが、実際は身体が自律的に歩くという行為を体現してくれているから、私たちは歩ける。能動的な「歩こう」という意識だけで歩いているわけでない。じゃあ、受動的に「歩かされている」かというとそれとも違う。となると、「歩く」は能動か受動か。

國分さんは、かつて西洋にもあった能動態と受動態のあいだにある態、「中動態」の存在を教えてくれる。

この「中動態」という概念は、私がずるずる説明した「発信」だけをメディアの機能ととらえる従来型のメディア論の「穴」を見事に埋めてくれるものでもあった。

そもそも「メディア」という概念がカバーしているのは、情報の発信だけじゃない。情報の受信、編集、新たな情報の発信という一連のプロセスすべてがメディアなのだ。この場合の受信と発信を厳密に切り分けることはできない。ぜんぶはつながっている。そして、最終的にメディアという概念を支えるのは、むしろ「受信」者がいる、ということだから、である。

たとえば、本来メディアでなかったものが、メディアになる瞬間、そのメディアでなかったものをメディアにするのは、作り手ではない。受信者だ。縄文遺跡は、かつての生活をおしえてくれる「メディア」だが、縄文の住居をつくったひとがメディアか。ちがう。そのひとは家をつくっただけだ。土に埋もれて、発掘されて、こりゃすごい、昔の家だぞ、と、「見た」ひとが、「受信した」ひとが、縄文遺跡をメディアにしたのだ。

大切なのは、受信か発信か、ではなく、受信してからの「編集」である。この受信と発信をつなぐ「編集」である。受信と発信というデジタルな区分けをアナログ的にぐしゃぐしゃつなぐ「編集」である。

繰り返そう。

メディアという概念は、実はものすごく西洋の文法的に捉えられた存在である。外部からの情報や刺激を「受信」=受動して、自分の中でなんらかの編集を行い、外部へと情報や行動を「発信」=能動する。この、受信→編集→発信、の、編集をし発信する能動的な主体を「メディア」と呼び、発信するなにかを「(メディア)コンテンツ」と呼び、受信する受動的な主体を「視聴者」と呼ぶ。

でも、実際には、受信する受動的な主体である「視聴者」の立場があって、つまりなにかを自分の中にインプットする行為があって、はじめてそのなにかを編集し、思考し、加工し、製作し、別のなにかにつくりかえて、発信する能動的な主体である「メディア」の立場にたてるわけである。つまり、受信と発信、受動と能動は、ひとつのメディアのなかで、ひとりの人間のなかで行なわれる一連の流れにすぎない。この流れは分断できない。インプットなくしてアウトプットはない。まずは「受動的」に受信しなければ、「能動的」に発信はできない。

そして、大切なのは、誰しもが受信してから自分のなかで行っている「編集」である。受信から編集へ。編集から発信へ。

てな、理屈をひねり出せたのも、昨年、國分功一郎さんの『中動態の世界』を読んで、「能動態」と「受動態」のあいだにある「中動態」の存在が、自分の中に残っていたからであろう。國分さんありがとう。

読んでおいてよかった。というか、この話は、ものすごーくざっくり走り書きしているので、たぶん穴だらけである。今度國分さんにいろいろ教わりわりたいです。

というわけで、こんどは、受信するメディアから生まれる娯楽が文明をつくる話になります。たぶん。

続きます。










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