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メディアの話その119 「フェイク」と「ニュース」と「生態系」と。

藤代裕之さん編著の『フェイクニュースの生態系』(青弓社)を読んだ。

「フェイクニュース」が蔓延する昨今の話を本書で読んだときに思ったのは、フェイクニュースがいいか悪いかという「価値判断」を保留して、フェイクかそうでないかにかかわらず、どんなニュースが拡散しやすいのか、ということを見た方が良さそうだ、ということだった。

想起した雑念を記す。

「生態系」ということば。

生態系は、もともとニュースのあり方に使われる概念ではない。

生態系は、「生きもののにぎわい」(C 岸由二 慶應大学名誉教授)と、その「にぎわい」がすまう「環境」のことである。

https://www.1101.com/ikirubasho/talk/kishi/index.html

生きものは相互に連環して暮らしている。食べたり食べられたり。共生したり寄生したり。植物は、光のエネルギーと水分と二酸化炭素から、炭水化物をつくりだす。光合成だ。

この炭水化物を食べて、さまざまな動物たちが暮らすことができる。死んだ植物や動物を分解することで生きている生物もいる。自分では増えることのできない「生物と無生物のあいだ」もいっぱいいる。ウイルスだ。

光合成に頼らないで、無機物から有機物をつくる「生態系」=生きもののにぎわいも、深海や地下深くにはある。こちらが、葉緑体がこの世に生まれる前の、地球の原始生態系だったんじゃないか、という話もある。

生態系は「生きもの」たちだけで成り立っているわけじゃない。

生きものたちが暮らす「環境」が必要だ。

それぞれの「環境」の条件によって、そこで展開される「生きもののにぎわい」の様相は大きく変わってくる。海の生態系1つをとっても、干潟と岩礁と浅瀬と深海でまったく違う。熱帯と温帯と寒帯でも違う。

上記の岸さんの「ほぼ日」の講演では、そんな「生きもののにぎわい」があるリアルな地球環境のいちばん重要な陸上の単位として「流域」をあげている。

多くのひとは、生き物のいる環境についてなんとなく3つに分類しているはずだ。

人間の手が入った人工的な「都市空間」と、人間の手が入った農林的な「農村空間」と、人間の手がほとんど入らなくなった「野生空間」。

そして、生態系は、「農村空間」と「野生空間」にあって、「都市空間」には「生きもののにぎわい」はあんまりない、というイメージを持っている。だから、たくさん生きものが暮らす「生態系」は、野生空間に行かないと出会えない、と思っている。南の珊瑚礁だったり、アフリカのサバンナだったり、アマゾンのジャングルだったり。

でも、それは都市空間に暮らす人間が考えた「ぼくの考えた最強の生態系=生きもののにぎわい」にすぎない。

実際には、「都市空間」にはこの環境にあわせてさまざまな生きものが暮らしていて、都市空間の生きもののにぎわい、がちゃんとある。「NHK BS」のゴージャスな自然番組で見られるような野生動物の生態だけが「生きもののにぎわい」ではない。

ユクスキュルは「生物から見た世界」で、それぞれの生き物は、それぞれの生き物が感知するそれぞれの「環世界」があって、おなじ空間にいても、生き物によって暮らしている「世界」が異なることを指摘した。部屋のなかにいる、人間と、ハエと、細菌と、ダニと、籠のなかの鳥は、場所はいっしょでも異なる環世界で生きている。

私たちが場合によると「東京砂漠」と思ってしまう「都市空間」も、ある生き物にとってはとっても暮らしやすい「環世界」が広がっている可能性がある。

たとえば、チャバネゴキブリにとって、都市空間は野生の森よりはるかに理想的な場所だ。自分たちを襲ってくる天敵は少ない。ヤモリやクモくらいしかいない。気温は年中安定している。そのうえ栄養たっぷりの餌がそこかしこに落ちている。極楽である。

別項で、都会のカワセミの日記をずっとつけているけれど、カワセミも案外現代の都市空間は暮らしやすいことが、わかってきた。日本の鳥でおそらくいちばん綺麗な種のひとつ、カワセミは「自然の中の清流の鳥」のイメージがあるけれど、実際は新宿にも渋谷にも日比谷にも中目黒にもいる。

カワセミの環世界は、餌となる魚やエビなどが確実にとれる川や池といった水辺と、巣作りができる川や池に近いところの崖にあいた穴、である。

都内の河川はいま概ね浄化が進んで、案外生き物がいっぱいいる。カワセミは餌には困らない。崖に空いた穴は巣作りに必要だけど、これは三面ばりのコンクリートの川の壁にあいた排水溝や、都心のいたるところにある神社やお寺、学校の緑の中に適した場所があったりする。

都心の川に暮らしている魚の多くは、コイだったりする。最近ではコイは外来種で排除したほうがいい、という報道がされたりするけれど、カワセミは都心河川で繁殖しているコイの稚魚を盛んに食べている。

また、やはり外来種であるアメリカザリガニやヌマエビの仲間も、都会のカワセミにとっては重要な餌だ。

コイの稚魚やアメリカザリガニや外来ヌマエビは、国産在来種だけが「正しい生態系」とするような保全生物学の立場からすると「いてはいけない生きもの」である。でも、現実は、その「いてはいけない生きもの」を食べて、清流の鳥、カワセミは、いま都心のあちこちでその命をつないでいる。

カワセミの命をささえている「環境」は、下水処理施設で浄化された家庭雑排水が流れるコンクリート張りの川や、お堀や、公園の池であり、カワセミの食を支えているのは、コイの稚魚やアメリカザリガニや外来ヌマエビといった外来種である。

理想の生態系、というと、たとえばカワセミの場合、四万十川みたいな清流があって、そこに伸びた紅葉の枝にとまって、アユをとったり、テナガエビをとったりする、なんてイメージを思い浮かべるかもしれない。実際、そういう「絵」をみせてくれる「カワセミの生態写真」がネットにはあふれている。

私がカワセミを見に行っている近所の都会の川にも、「カワセミの暮らす理想の生態系」を写真に撮りたいと思っておる老人がいて、柵を乗り越えて川のヘリに降りて、紅葉やアジサイの枝をさして、そこにとまったカワセミの写真を撮ろうと躍起になっている。

実際にここで暮らすカワセミがとまるのはコンクリートの階段であり、プラスチックの梯子であり、脇にはコンドームやビニール袋が落ちていて、食べるのはアメリカザリガニと外来ヌマエビである。

どっちが「正しい」生態系なのか?

もちろん、「どっちも」である。

都会の暮らすカワセミの生態を「ほんとうじゃない」と考えてしまうのは、そう考えているひとが、生態系に自分の「価値観」を勝手に持ち込んでいるからである。

でも、その「価値観」は、カワセミの「環世界」ではない。

カワセミの「環世界」は、水辺と穴と水の中の魚介類がちゃんとあること。以上がそろっていれば、いい。

さて、ここでニュースの生態系に戻る。

生態系という比喩を使うならば、ニュースとフェイクニュースは「近い種」の似た生態をもつ生きもの」と考えた方がいい。そして、おなじ「ニッチ」をとりあう、ライバルと見立てた方がいい。

フェイクニュースの生態系、という言葉をみたときに、そもそもニュースの生態系とはどんなものか、といろいろ考えた。本書では冒頭17ページで触れている。

そもそもニュースってなんだろう。

ニュースはNEWSだ。要するに「新しい情報」である。そしてその情報は「事実」であることが定義としては重要だろう。

だからこそ虚偽のニュース、フェイクニュースという表現が成り立つ。新しい噂話は、ニュースじゃない。「噂の真相」1行情報である。

じゃあ、なぜ「ニュース」というのが存在するか。私たちが欲するからである。欲しなければ「ニュース」を伝える人は存在しない。人間は「ニュース」を欲する生きものなのだ。

なぜ、「ニュース」を欲するのだろう。

まずは生きるためだ。

誰よりも早く「餌場」や「水の湧く泉」や「隣村の可愛い女の子」「谷の向こうの屈強な男」の情報を得ることができれば、それだけ自分自身がいろいろな意味で生き残る確率は高くなる。古代から現代にいたるまで「ニュース」を得ることは、生き死ににつながる。その感覚は、おそらく私たちの本性の中にある。

一方で私たちは「うわさ話」を欲する側面もあるようだ。

「百五十人の村」理論で有名なロビンダンパーは、人間のコミュニケーションの進化のプロセスで、集団内での「うわさ話」が、猿の毛づくろいのように、集団の結束や親睦を深めるために重要な役割を果たしている、という説を展開している。

私たちは、「新しい事実」と「うわさ話」を欲する生きもの。

どちらも「ニュース」である。つまり私たちは「ニュースなしでは生きられない生物」なのだ。

文春砲は、見事に「新しい事実」と「うわさ話」の2つの側面を満たしているニュースである。

人気が出るのは当然である。

ここでポイントは、「新しい」は判別がつくけれど(自分が知らなかったらその情報はすべて自分にとって新しい)、「事実」かどうかは、判別がつかない。

だからこそ「フェイク」な「ニュース」が入り込む余地が生まれる。

「新しいうわさ話を欲する人間の欲望」という環境を取り合うライバルが、ニュースとフェイクニュースである。

そして「新しく」って「うわさ話」として魅力的だったら、事実じゃなくてもそのニュースは伝播しやすい。私たちが欲しているのは、事実であるまえに、新しいこと、うわさ話として魅力的であること、だからである。

そして、私たちは、それぞれの出自や経験に基づいた「ものがたり」を有している。「ニュース」をみたときに、自分の「ものがたり」が価値判断するうえでの基準となる。

自分の「ものがたり」と合致しない「事実」は、「そのひとにとってのフェイク」になる可能性がある。自分の「ものがたり」を強化してくれる「フェイク」は、「そのひとにとっての真実」となる。

ワクチンをめぐる言説は、まさにこのパターンがあてはまる。個々人の「ものがたり」のまえでは、しばしば「圧倒的な科学的事実」も効果をあげなかったりする。

と、考えると、「フェイク」なニュースは今後も常に存在し続ける。なにせ、私たちの中に「新しいうわさ話を欲する欲望」という「環境」が存在し続けるのだから。

新しいうわさ話を私たちは欲する。その中に、「事実」も「フェイク」も混じる。避けるのは難しい。

いまは「だれでもマスメディア」時代である。情報発信は、マスメディアが一方的に行っているわけではない。

本書では、Twitterのようなソーシャルメディア=だれでもマスメディアから発信された「フェイクなツイート」を、マスメディアが「ニュース」として取り上げることによって、「フェイク」が拡散する現象についても言及されている。

「フェイク」か否かの判定は、プラットフォームがAIで行う作業になるかもしれない。

話が拡散した。続きはそのうち。








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