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命日、スメタナを想う 2

前回に引き続き、スメタナの人生に思いを馳せたい。

今回の鍵となるのは弦楽四重奏曲第2番ニ短調、最晩年の作品である。

私はこの題材を心に留めた時、とてもしっくりと来た事がある。昨今のコロナ騒動で疲弊している今、スメタナの音楽が私をはっとさせたのだ。

今回はその事について、大切に書いていきたい。

・・・

命が尽きるまで、彼を突き動かしたもの


弦楽四重奏曲第二番を書き上げたのは、1882年から1883年の間。すでに聴力は完全に失われ、医師からは作曲を辞めるように言われていた。しかしスメタナは従わず、短い時間でこの二番を書き上げた。

彼はこの頃にはもう、身体のあちこちに限界を感じていた。精神は蝕まれ、時折現実と妄想の区別がつかなくなった。この症状は第一番を書いた時にも現れ始めていた。1875年、彼の日記には「もし私の病が不治のものだったとしたら、私はこの人生から解放されるべきなのだろうか」と残している。それから数年、病の進行は早く為す術もなく彼の狂気は芽吹いてしまった。

医師は彼に作曲を辞めるように忠告したが、彼はペンを置かなかった。いや、置くことができなかったように、私は思う。医師は作曲が彼のストレスになると判断した。しかしスメタナにとっては限りなく救いだったのではないか。彼を突き動かしたのは、音楽だったと思うのだ。

ここで第二番を見ていきたい。


禍、 渦。


今回も、チェコの至宝スメタナ四重奏団の演奏と共に考えていきたい。

弦楽四重奏曲第二番二短調の特徴は、全楽章の頭がユニゾン(すべてのパートが同じメロディを弾くこと)で始まること。そして精神障害により楽曲構成が従来のものとは違うことである。

私はこの曲について、楽章毎に捉えて解読することを避けたいと感じる。これは最初から最後までが彼の一つの叫びであり、夢であり、現実であり、言葉だと思うからだ。

聴けば感じる通り、学術的な区切りや楽曲構成など彼には関係ない。それまでの音楽(時代で見た常識的な)はこの作品で、良い意味でぬりかえられた。この曲を聴いたシェーンベルクは後に、後期ロマン主義の皮を脱ぎ、新しい表現主義音楽を開拓して行く。シェーンベルクはこのスメタナの最期の音楽に影響されたことを認められている。スメタナの狂気は、時代を、音楽を、変えたのだ。


流れるメロディは断片的な印象が強い。それはまるで人生の終わりを前に、とつとつと思い出を語っているようだ。しかしその口調はけっして穏やかではない。隠しきれない高揚と哀愁が忙しなく現れる。まとまりはなく、曲はあっという間に流れて行くがそこに一貫して感じるのは『幸せ』だと私は思う。

スメタナは、死を直前にしてチェコ国内で高く評価された。今でこそチェコを代表する作曲家として名高いが、それは死の直前もしくは死後の評価である。彼はその評価を肌で感じることなく、逝ってしまった。この作品を書き上げた直後、施設に入れられ音楽と離れてしまう。彼が旅立ったのは施設への入所から僅か1ヶ月後だった。

 この曲を弾いている時、私は様々な思い出に浸かっているような感覚になる。言わば走馬灯に近いと、思う。1980年にClapham Johnの著書 "Bedrich Smetana"の中で、第二番はこう評されている…『聴力を失った男の音楽の渦』と。彼の人生に降りかかった禍(わざわい)は、音楽の渦(うず)となって表れた。スメタナ四重奏団の演奏を聞けば確かにそれを感じる。感情の色彩に酔ってしまいそうな程だ。


傷を癒すもの。

自分のまだ短い人生が、スメタナのそれと重なる。親しみやすい独特の暖かさに満ちた音楽は、決して他人事と思えない引力がある。だからこそ強く感じるのは、彼が音楽に限りない癒しを得ていたという事だ。

医師の忠告を無視して、彼は五線紙にペンを走らせ続けた。それが彼にとっての一種の治療だったのではないかと思う。いや、そう信じたいのかも…。

彼は音楽を選択したのだ。自分のために、そしてそれは図らずも音楽のためにもなった。凄いことだ。

今、世界は傷を負っている。

未曾有の事態に、私たちはまず自分を守らなければいけなかった。そのために最優先させるべき事の中には残念ながら、音楽は入らない事が多いだろう。

しかし、この傷を癒す手段の中に音楽があると、私は強く信じている。私たちは選択する事ができるのだ。そう、スメタナがそうした様に。


失われたものは数多い。残念ながら、芸術は後回しにされがちだ。

でもだからこそ、音楽を選ぼうと思う。それは私が私を救うために。

そしてそれがいつか、音楽への救いになれば良いなと微かに思いながら。



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