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『天の歌  小説 都はるみ』 中上健次

 かつて彼女はまぎれもない天才として名を馳せて、昭和の演歌文化を支える大立者として君臨した。

 その人は芸名を、都はるみという。 

 彼女の半生が、中上健次によって小説とされていく。彼女の幼少時代。デビューのきっかけとなったコンテストの様子。デビュー後すぐにヒット作を出し躍進していくさま。思うところあってみずから引退を決めラストコンサートに臨むその日のこと……。

 生涯のいくつもの場面を事細かに、まるで見てきたかのように、彼女になり変わったごとく、心情までたどりながら描き出す手腕はさすがのひとこと。中上が物語を紡ぎ出す力は多くの人を虜にしてきたけれど、丁寧にシーンと心情を積み重ねていくその業と手つきは、思いのほか繊細なのだなと知れる。

 読み進むと、仮に都はるみの歌声を知らないとしても、若くして歌うことをわが身に背負い、歌うことを自分の為すべきことと考え実践し、歌を愛し続けた人間が実在したのだな、ありありとそう感じとれる。

 筆の力によってひとりの歌姫の姿がくっきり立ち上がっていくのを追うのは興奮する。文章をたどる、それ自体の歓びがある。

 生前の中上は、都はるみと親交が深かった。ジャンルは違えど、表現者として感化される面も多々あったのだろう。彼女を主人公に据えて一編の小説を書き上げた動機はそこにある。

 数々の有名作と並び称されることはあまりないけれど、今作は中上作品の魅力の根源が、最もわかりやすく露わになっている。

 文章によって人や土地の匂いを感じさせる。それが小説家・中上健次の力の源泉である。匂いとは、個性であり色気だ。ある人や土地の個別性を感じるときはきっと匂いを伴うし、人や土地の艶っぽさにどきりとするときはいつも匂いが介在している。都はるみという歌い手と、彼女が生きた時代、土地の匂いを、この作品は強烈に放散する。

 実際の都はるみは、いったん引退したあと、しばらくのちに歌手へ復帰する。より自由に、歌うことをもっと楽しもうという姿勢を貫くようになった彼女が歩んだ道もまた、興味深い。

 ほんとうは中上健次に、「その後の都はるみ」の姿も描き出してほしかった。彼の死によって、それはもう叶わなくなってしまったけれど。

 他の者の手によるのでもいい。都はるみの半生はさらにもう一度書かれるべきだ。


『天の歌  小説 都はるみ』 

中上健次

中公文庫


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