見出し画像

第二十夜 『現代美術コテンパン』 トム・ウルフ

これが著されたのは1970年代のこと。ニュー・ジャーナリズムの旗手と目された米国のジャーナリストの手になる、美術時評だ。

その頃のノリというのか、あとは訳の問題もあるか。軽い口調にどうも乗り切れないところはあるけれど、時代の空気みたいなものがダイレクトに伝わってくるのは悪くない。ジャーナリズム作品はそこが大事。

トム・ウルフは本書で、眼前にある作品やアーティスト、当時のアートシーンをどしどし描写していく。そのなかでひとつ主眼にしているのが、難解で理論ばかり先走る現代美術作品についてのクサし、というかまっとうな批判。

リアリズム作品に対して大物記者が、説得力ある理論の欠如を嘆いているのを目にしたトム・ウルフは、

「昨今は理屈ぬきに絵は見れませんよ、ということなのである」

と、疑問を呈する。

続けて彼は、最近美術館に行って、ポロック、デ・クーニング、ニューマン、ロスコ、ラウシェンバーグ……。昨今流行のアーティストたちの作品の前に立って、ためつすがめつ睨んで待ちぼうけてみたという。

何を待っていたのか?

そこにあるはずの、視覚上の報いを待ち受けていたというのだ。

でも、彼のもとには何もやってこなかった。

アートに触れたとき訪れるはずの「眼の歓び」が、流行りの現代アートにはない……。

そしてトム・ウルフは気づく。現代では、「見ることは信じることなり」じゃない。「信じることが見ることなり」になっているのだと。

「つまり、現代美術は、すっかり文学的になってしまったからなのである。絵にしろほかの作品にしろ、それらはテクストを解説するために存在するにすぎないからなのである」

現代美術が文学的になってしまっているとは、大した皮肉だとトム・ウルフは感じた。

というのも、ふつう現代美術へとつながるモダニズム運動とは、1900年ごろから、ルネサンス以来続いてきたリアリズム美術の文学性をはねのけるところから始まったはずだったから。

リアリズム作品は文学性を色濃くまとっており、それこそが美術の退廃とみなされたのだ。例えばジョン・エバレット・ミレイの「オフィーリア」なんかは、文学から直接借景している。

ミレー「種をまく人」なんかもそうだ。この絵に人気があるのは、ミレーの絵の才というより、もっぱら「働き者のヨーマン」という描かれた人に対するセンチメンタルな思い入れによる。

「彼らはこうして、その男にまつわる、ちょっとしたお話をつくってしまうのだった」

そうした文学的な絵画の対極にあるのは、芸術のための芸術、形態のための形態、色彩のための色彩である。フォーヴも未来派もキュビズムも、20世紀の美術の流派は、何かを表す絵なんて描きやしない。美術はもはや、人間や自然を映し出す鏡にあらずとなった。

「絵は、見るひとに、それ以上でも以下でもないそのもの、つまり、キャンヴァス上の色彩や形態の一定の配列、を見させるべきだ」

そうブラックはいった。

「画家は形態と色彩とで考える。めざすところは逸話的な事実の再構成にあるのではなく、絵画的な事実の構成にある」

というわけだ。

ああ、それなのに。いつからか20世紀美術は、気づかぬうちにまた文学性をまとうに至ってしまっていた。なぜだろう。

ひとえに美術が難解になってしまい、一部の「わかる人」にだけわかる作品になっていったからだ。

「わかる人」という特権階級になるために、秘伝の奥義のような理論がありがたがられ、美術とはその理論を解するかどうかの読解力テストみたいな存在になってしまったのだ。

トム・ウルフが本書を記した1970年代の現代アートの状況は、そんな袋小路にハマっていたということである。ちょっと距離をとってみれば滑稽にすら見えるそうした状況を、適切にクサすことができたトム・ウルフ。いいジャーナリストだなと思う。



現代美術コテンパン

トム・ウルフ

晶文社


みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?