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ソリューション・ジャーナリズムを試みる ―震災と原発事故の伝え方― scene31

 「くるりが相馬でライブをやってくれることになりそうだ」
森田さんからその連絡がきたのは、くるりの「soma」についての取材が進み、番組の骨子が見え始めたころのことだった。当時、くるりは全国47都道府県すべてをまわるツアーを敢行していた。福島県はすでに郡山市でのライブが決まっていたが、それとは別に岩手と宮城、そして福島の相馬でライブを開催する方向で調整が進んでいるという。いいタイミングで、いい情報が入ってきた。どんなに取材が深まろうとも、くるりが相馬に来る機会を撮影できなければ番組にするのは難しい。くるりと相馬の人たちがいっしょにいるという映像がないからだ。でも、これなら番組にできる。私はすぐさま企画書を仕上げた。そうして採択されたのは「東北Z」という東北地方のみで放送される43分の枠。金曜夜8時から放送している番組だ。全国放送ではないものの、ゴールデンタイムに放送される枠で、多くの人に見てもらうことができる。くわえて、決められたフォーマットがなく、自由度が高い魅力的な番組だった。

福島局への転勤が決まったときに思い浮かんだ企画が実現する。それはとてもうれしいことではあったが、実際に作るとなると喜んでばかりもいられなかった。番組は43分もの時間がある。取材を通じて、相馬の人たちにsomaがどのように作用しているのか、そのことについては多くの人の話を聞くことができ、情報が集まっていたが、Aさんのケース・Bさんのケース・Cさんのケースと順番に紹介していけばいいものでもない。物語として描くには、どうしたらいいだろうか?そんなとき、当時読み漁っていたハリウッド映画の制作に関する書籍の中で、「20分に1度盛り上がるシーンを用意している」ということを知った。およそ2時間の映画で20分に1度、43分なら15分に1度ぐらいだろうか。15分、30分、そして43分、合計3回の盛り上がりを作れるように番組の構成を考えてみることにした。最初と最後の盛り上がりは決まっている。最初は、この歌が生まれ、森田さんが初めて「soma」を耳にしたとき。最後はくるりが相馬にやってきて、ライブで歌う「soma」。では、中盤で何を描くのか。そこが足りていない。歌が届けられた日、それから数年たった今、歌が相馬で歌われる日、その間にどんな話が入るのだろうか。悩むなかで頭のなかに浮かんできたのは直前に制作していた「畑の味のフレンチ」だった。この番組は、福島県内という視聴範囲を意識して制作した。風評被害という具体的な課題に対して、福島県内の人たちに「おいしく食べ続けること」という1つのメッセージを発した。今回の番組の視聴範囲は東北6県。どんな課題をどう感じてもらいたいか?来る日も来る日も考え続けて見えてきた答えは「関係性」だった。今回は福島県内だけではなく、東北のほかの県の人たちも見る番組。つまりは、外から福島に来るだろう人たちもいる。原発事故をめぐっては福島県の内と外では温度差があり、外の人にとっても福島とどう関わればいいのかつかみあぐねているようにも感じていた。そこで、普段は東京や京都で活動するくるりが、相馬の人たちとどうやって関係を築いていったのか?そこを描くことで、福島との関係性について戸惑っている人たちにひとつの答えを提示するような番組にできないかというねらいが定まってきた。

 ぼんやりとしたねらいが見えてきたところで、取材に向かう。取材相手は、CDショップの森田さんとともに何度もくるりと会っている人。南相馬市で障害者の作業所を運営している佐藤定弘さん(現在は相馬市で「もくもく」という作業所を運営している)。震災後、佐藤さんが森田さんとともにくるりに会いに行き、作業所で缶バッジを製作してもらえないかと依頼したことが交流のきっかけになっていた。以来、佐藤さんはくるりが主催している京都のイベントに出店したり、くるりのメンバーが作業所を訪ねてきたり、ゆるやかに関係を深めてきた。くるりとの関係性をどう思っているのか?佐藤さんに取材してみることにした。その初めての取材、ノートの最初のほうにこう書き残している。「友だちを思うようにつきあってくれる」。友だち、これがキーワードになるのかもしれないと感じた。当時、福島ではボランティアや支援者という言葉をよく耳にしていた。当然、それは友だちとは違う。つまり、佐藤さんは支援したり、支援されたりという関係性だとは感じていないということ。元々はバッチを制作する支援から始まった関係性が、時間を経て友達へと変化している。被災地で語られるこの「友だち」という言葉にはもっとさまざまな側面があるのではないか?佐藤さんの元を何度も通い、しつこく話を聞き続けることにした。

 取材の際、私は同じようなことを、聞き方を変えて何度も聞く。私自身の能力が足りないからということもあるが、それ以外にも理由がある。時間をかけて同じことを考え続けてもらうことで、整理され、言語化されていく。すると、それまで出てこなかった言葉が出てくるからだ。このときも「佐藤さんにとって友だちってどんな存在ですか?」「ボランティアと何が違うんですか?」「ボランティアから友だちになった人は他にいないんですか?」「どんなときに友だちだなって思うんですか?」「くるりを友だちのように感じるようになったのはいつ頃からですか?」・・・思いつく限りの質問を用意して、ぶつけた。何度も何度も同じようなことを聞かれ、相手にとっては大きな負担だったと思う(佐藤さん、ごめんなさい)。でも、ここが番組の核になる。その思いがあったからこそ、可能な限り時間を割いてもらい、南相馬に車を走らせた。取材ノートを見返してみると、こんな言葉が並んでいる。
「付き合い方で楽なのが、友だちでいるっていうこと」
「物資の支援やボランティア活動の人たちとは3年目になって切れてしまった人が多い」
「普通の友だちでいいのかな」
「何かしにくるわけでもない。そこがいい。こっちが楽」
「姿勢が心地いいから友だちになれる」
「ゆるい」
「がんばれとも言わない。たたかえとも言わない。色がない」
「ふらっと来て、ふらっと帰る」
取材を重ねるなかで、「友だち」という言葉の輪郭が少しずつ見えてきた。その取材をへて臨んだ佐藤さんへのインタビュー。撮影は、およそ1時間。実際に番組で使用したのは1分にも満たない(森田さんへのインタビューはそれ以上の時間を要している。佐藤さん、森田さん、ありがとうございました!)。しかし、印象的な話を聴くことができた。番組で使用したのは以下の通り。
「この(町の)雰囲気をわかりながら、あっちで暮らす、違うところで暮らすんだけど、その気持ちがわかっているだけで、ずっとつながっていられるのが友だちなんじゃないの。だから(くるりは)何度も来て、自分を確認していくのかな、もしかすると。そうかもしれないね。何度も通う理由はね。ずっと友だちだよっていうメッセージだよ、たぶん。これは強いよね。そういうことかもしれないね」
放送された番組では、佐藤さんのインタビューの前に「soma」という曲がきっかけとなり、くるりと相馬の縁が深まり、メンバーが町を訪ねるようになっていたことを説明した。時にはひとりでふらりと訪ね、バッジを作る作業所で歌ったり、地元のスーパーで放射能検査を見たり、町のことを知っていった。その事実を伝えた後、こんなナレーションを用意して佐藤さんのインタビューにつなげた。「何度も通ってくれること。それが町にとって、何よりも力となっていく」。

 ボランティアでも支援者でもなく、友だちとして何度も顔を見に来てくれること。このことは、私にとっても被災地との関係性を考える上でとても大事な言葉になった。震災から3年が過ぎ、震災に対する関心が薄れはじめているという声も聞かれはじめていた。そこでよく耳にするようになった言葉が「じぶんごと」。「他人事ではなく、じぶんごと」。自分のこととして考えよう、ということ。もし自分が被災していたら、この先自分が被災するかもしれない。そうやって、じぶんごととして考えつづけよう。それは大事なことだと思いつつ、難しいことだとも思っていた。この社会には数限りなく課題がある。それに対してすべて「じぶんごと」で向き合えるだろうか?極論かもしれないが、そう問われているような気がした。そして、今それはできていないし、この先もできるとは思えなかった。「じぶんごと」というのは正しい考え方だけれども、そんな風に360度全方位に関心を向けられる人ばかりではない。でも、だからといって関心がないわけではない。そんな人たちがどう被災地と関わったらいいのか?そのひとつの答えが「友だち」。何か社会的な課題に触れたときに思い浮かべられる顔があれば、それは他人事ではなくなる。じぶんごとでもない、他人事でもない関わり方として「友だちごと」があるのかもしれない。

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