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新しい動きがつまらないなぁと思ってしまうことに罪悪感を抱えています。

ここのところ、新しい学校の考え方と学びとかオンライン教育とか、の対談とかセミナーとかちょこちょこ参加しているのですが、上から目線というわけではなく(だから「つまらない」と感じることに罪悪感を感じるのですが)、「え?なにを当たり前のことを取り立てて講座化?イベント化?」っていうものが多くて、勝手に新しい知識・情報が得られる期待値をもったワクワク感を裏切られた感じがしてがっかりしています。

「教授とか社長とか」がいうと正しい意見としてもてはやされる

小さな地域の現場の先生とか、一般の保護者とか、おんなじこと気づいてましたよね。ずっと。長い間。

声もあげてきた人たちも結構いるだろうし、現場で頑張ってきた人たちも多いでしょう。規模に関わらず。

大多数の動きに気づかず、そういった声をフォローすることに親身じゃなかった人たちがいま気づき、いろんなイベントを立ち上げる、提言する、鼓舞する。

いやいやいや、遅いのになぜ主導するの?
って思ってしまいます。
たぶん、自分たちの層のひとたちとしかお付き合いがないのでしょうか。
社会の層として、同じ空間の人としか「混ざってこなかった」のではないでしょうか。
だから、そういう声がいままであったんじゃないか?っていう想像が及ばない。
自分たちが見つけたもの!とアピールできる。

先進性を競っているのではなく、声が大きく世論を動かせるのに必要なポイントに届かないという点がもどかしい

どっちが早い、とかそれを競いたいわけではないです。
たいてい、立場的に回りを巻き込みやすかったり、広げるスキルがあるひとたちが多い。
にも拘わらず、層が混じるような人生を送ってきていないからか、ほんとうに必要な人に届かない策をメインにしてしまう。
だから、大変な人のなかのうちのブルジョアにしか届かないものばかり打ち出すことにもどかしさを感じるのです。

結果、ほんとうにずっと必要としてきたことが必要な人に届かない、中途半端な新しい動きになってしまっている気がします。

企業が動くと結局は自分のサービスを広げるところに持っていかれる

ビジネスとしては間違いではないでしょう。ちゃんとクロージングに持っていく。

結局、わたしはどこかで「社会貢献」と「ビジネス」の両輪をちゃんとバランス取れる動きをしている人しか信用していないのだと思います。

難しいけれど、それを自分も突き詰めていきたいし。(いまはどうやっても社会貢献側に傾くけれど)

その両輪がない動きって、お金を貯めたい!とか別荘買いたいとか、明確な目的がない状態で何を求めてやっているんだろう、と素朴に不思議な気がします。

どうしても、そもそもその先のエンドユーザーに(どんなサービス・業種でも)届かないサービスを作ることにエネルギーを向けるのができない気がするのです。

そういう視点で考えると、学校のエンドユーザーはこどもたち。
ご機嫌をとるサービスにしようという意味ではなく(ビジネスではなく教育だから)、押し付けの教育ではなく、エンドユーザーが「学べる」にはどういうかたちが必要かって、考えないとならないんじゃないかなって思っています。

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