第59回: 感性と慣性と (Jul.2020)

 ほぼ外に出ないまま、また一月を終えた。先月末に50万人を越え、一月内には倍増すると言われていた当地の感染者数は、2週間足らずで楽々と100万人を超え、実績値は3倍超の160万人に至った。既に9割の駐在員が引き上げ済みというが、未だ臨時便が飛ぶ度に一定の帰国者がいるのを見ると、ポスコロNew Normへ移行が進んでいるのを感じる。学校もPTAとの議論・交渉を経て新年度が始まり、これまでの遅れを取り戻す意図も含めて中学部は45分×8コマ×5日。当然に全てスクリーン越しでのタフな時間割が定められた。

 懇意にしている近所の大学の副学長からの電話、講義依頼に二つ返事で了承した後でテーマを聞けば、人文科学を専門とする彼自身の授業の1コマ、2年生200名に “戦後日本の政治と経済” を教えて欲しい、という。全く知らない話でもないが、大学で教えられるほど体系立てて学んだ記憶はないし、極めて断片的な事柄を除けば語れるほどの知識にも乏しい。これまで学生を海外技術研修に送り出す際に述べてきた決まり文句、Learn – Unlearn – Relearn を身をもって実践する機会となった。

 Bengaluruに居て得られる情報はネット経由に限られる。比較的容易に見つかる一家言ありそうな誰かに議論を挑もうかとも考えたが、前提となる主張や立ち位置の違いを理解できるだけの予備知識すら欠くから、気軽に声を掛けるのも躊躇われる。何等か工業技術分野であれば、プロジェクトを通じて学んだ知識や経験から相対感で測れる部分もあるが、アホウ学部の学生時代を含めジンブンカガクを真面目に学んだ経験も記憶もないから、小中学生向けの教科書や動画が学び直しの良い出発点になった。

 正しく四十 (過ぎ) の手習いだが、幸い “学び方” だけは習得していた。併せて、新しい知識を得たら "更にその先" を考えて試さずにいられない好奇心、は子どもにもインド人にも (?) 負けてないことを再確認。良くも悪くも安定した日常生活を望めない環境下、興味と感性に従って生きているのも強ち間違ってはいなかったか。

 その意味では、自宅に籠って既にかれこれ4か月半。大きな不安も不満もないのは、ポスコロNew Normに適合できた証か家族の気遣いに感謝すべきか。オンライン化・バーチャル化できるものとできないものの峻別を体得できたのも、“コロナ益” のひとつに数えるべきだろう。

 “戦後日本を教える” にあたり、古代神話から国の成り立ちをざっと一通りさらった。南インドの生活者として、また他のどこかでの生活・滞在経験からしても、日本人ほど洗練された感性の持ち主はいない、と信じている。一方で、報道を通じて見える現代日本は、黄金時代の残り香に生きるボリュームゾーンの慣性・惰性に強く支配されている感がしてならない。簡単な基準を示し、誤りが分かれば正して方向転換する、のが容易でないのは世の常かもしれないが、各組織が太り過ぎた故か、施策全体の効果訴求はおろか整合性すらも図られない。本来、指揮統合するべき立場の者すら、この慣性に抗えないのか、抗おうとすることすら無駄なのを知ってただ流されているだけなのか。。。

 ある歴史観に因ると、大日本帝国憲法からの経緯や日本国憲法の成立過程を語るまでもなく、日本は本来的に民主主義なのだという。支配する者とされる者の間の歴然とした壁を前提とした社会と、国民の象徴自ら農業を営みその象徴に任命・認証された者が治める "任を担う" 社会とでは、統治・経営の根本思想が相容れないのだ、と理解した。かねてよりインド・以西諸国では、営業・マーケティングや生産・調達といった機能単位の進出に過ぎないこれまでの海外展開とはモードの異なるアプローチが求められる、と唱えている。改めて、日本の良い方の慣性が及ばない、かつての大東亜共栄圏の外の新興国では、その場の感性に従って振る舞うのも有用だ、と新たに学んだ視点から同じ結論に思い至った。

 日本では空気のように流れる自然な慣性とJUGAADな感性をどう融合できるか、引き続き挑戦が必要だ。

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