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ヤマト言葉最古の文献は、海外にあります。

 プラジュニャ パラミタ フリダヤと最後に書かれているだけのメッセージです。題名はありません。口伝で伝わっていたものが、2世紀頃に書き起こされたものと推測します。

 サンスクリット語の文献とされますが、サンスクリット語ではところどころ読むことができません。なぜならもともとサンスクリット語ではないからです。日本では般若心経と呼ばれています。大乗仏教で担ぎ上げられたため、大乗仏教の経典とされますが、これは事実と違います。

 このプラジュニャ パラミタ フリダヤが制作されたのは、仏陀が生誕する500年以上前のことです。これは伝わっている音が証拠として残ります。今から解説する音の中に時代を特定する証拠と、アーリアの場所を特定する内容が含まれます。

 この文献をヤマト言葉と照合することで、本来の意味を復帰させます。それと同時にヤマト言葉の本来の意味も再生することができます。

そもそもサンスクリット語とはどういうものなのかについて説明します。

 サンスクリット語の名前が出てくるのは5世紀頃ですが、実際には古い時代から使われてきた言語です。意味が失われた段階で、再編されたものが現在のサンスクリット語です。

 インドの古代語にはヴェーダ語がありますが、サンスクリット語はこれの延長線上にあると考えられてきました。実際に再編されたサンスクリット語はそのようになっています。

 問題になるのは、再編されるまえのサンスクリット語です。般若心経が書かれたのはこの時期であり、それゆえに読むことができません。サンスクリット語として確立する前の言語と後の言語は、同じサンスクリット語でもまったく異なる言語です。

 結論を先に書きますと、サンスクリット語はそもそもヤマト言葉です。これをヴェーダ語で無理矢理読めば、現代のサンスクリット語になります。ヤマト言葉で読めるのは、仏陀誕生以前から存在する古代のサンスクリット語の音だけです。仏陀誕生後に作られた経典などは、同じサンスクリット語でもヤマト言葉ではもう読むことはできません。

 もともとサンスクリット語が日本語に似ている情報はたくさんあがっていますが、似ているのではなくてヤマト言葉の時点ではこれは同じ言語です。サンスクリット語はヴェーダ語に吸着され、日本語は漢語でヤマト言葉を書き換えた状態です。

 今の段階で僕が確認しているのは、般若心経のみです。これを実際に読んでいきますが、サンスクリット語の歴史や、日本の歴史、世界の歴史までがわかってくる情報が詰め込まれています。3000年前のレコードを再生して、当時の声を聞くのに似ています。「どんな声が聞こえるのか」。ヤマト言葉を理解できるなら、あなたにもその声が聞こえるはずです。

 そしてその声には、あなたの失われたアイデンティティを取り戻す力があります。お金では買えないほどの価値があると思います。

 猿の惑星で猿の奴隷として育った人間に、人間の言葉を教えるようなものです。彼らが自分が人間だと知ったとき、その情報にはどんな価値があるでしょう。猿として暮らす限り、彼らはこの情報には全く興味を抱かないかもしれません。今のあなたのことです。

 この先に先人が残したヤマト言葉と智慧を記します。これに関して僕が付け加えたいことは、ひとつ。「はやく目を覚ませ」ということです。

プラジュニャ パラミタ フリダヤを読む その1
 āryāvalokiteśvara bodhisattva gambhiram prajñā-pāramittā caryān caramāno vyavalokiti sma

 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時

 アーリャバロキテーシュヴァラ はアーリアという音から始まります。これはアーリア出身のという意味です。漢語のほうでは省いています。続くアヴァロキテーシュヴァラは、全てを見通された人という意味です。全知全能の主と言い換えることができます。

 ボーディサトヴァを展開すると、ボーディ サントは という音になります。

 ボーディには古代からの伝承が残っていて、戦士や勇者、貴族を意味する言葉でした。これに伴って、観自在菩薩は、本来は勇者や貴族となります。これでヤマト言葉と照合できるようになっています。

 ヤマト言葉にも同じ意味で使われる音が残っていました。「オージ」です。「王子」と漢語で書きますが、ヤマトの国には「王」がいないので、王子は存在しません。この「オージー」は漢語の音でもありません。ここから漢語で「王」が出てきます。オージーは、「ひめ」の対義語になりますので、これはヤマト言葉です。

 さらに人の名前に「さん」がつくのがヤマト言葉でした。実はここに「さんと」と言う音がつきます。「と」がつくのもヤマト言葉の特徴です。「みこ」が「みこと」になるように、「さん」は「さんと」になります。リーダー的な存在が「さんと」です。こちらもギリシャ方面でみられる表現です。

 続けて読むと、「アーリアの全知全能の主、オージーさんとは」になります。

 もうひとつ重要な読み方が、ヤマト言葉で聞こえるという点です。ヤマト言葉は……。主語に対して、「は」という語尾がつきます。

 般若心経の音は、主語の部分に「は」「う゛ぁ」「あん」などの強調する「は」が入っています。これがヤマト言葉に聞こえる原因でもあるのですが、それが実際にヤマト言葉であった場合には、主格を表す語尾になります。

 ボーディサトヴァの音はまさにそれです。ボーディサント「は」という原音が出ます。

 黒海周辺からこのアーリアの言葉が来たという伝承がありますので、黒海周辺の音にさらに戻してみると次のようになります。

「アーリアの全知全能の主、オーディン様は」

 実際にオーディンは、このケニングを持っていることが伝えられます。後で検証しますが、北欧神話が伝えられる言語は印欧祖語ですが、出てくる名称はほぼヤマト言葉です。このカラクリは、周辺地域の言語と拡散時期から追い込むこともできます。

 とりあえず、ここで重要な情報はアーリアの場所です。アースガルドです。

 オーディンが住むアースガルドは、アーシアやアシアと呼ばれていたことが伝承で明らかです。これがメソポタミアやインド周辺ではアーリアという音になっていたことがわかります。

 どおりでサンスクリットの印欧祖語とされる音が黒海周辺の印欧祖語の音と類似するわけです。

 次にプラジュニャ パラミタを見ましょう。prajñā-pāramittā

 プラジュニャとは智慧です。それがパラミタという智慧であると書かれます。

 彼岸へ渡るための智慧と訳します。彼岸へ渡るのがパラミタという音です。パラは「たかまがはら」の「はら」、ヴァルハラの「はら」と同じ音です。はらm(に)ITTA(いった)でパラミタと読んでいます。ここで出てくるITTAは、ヤマト言葉と同じ「行った」という意味です。

 これがヤマト言葉と同じであるのは、意味だけではありません。使い方も同じです。「行った」には日本語特有の表現が含まれます。英語でいうところの、「GO」と「ARRIVE」が同時に表現できてしまうのです。これはサンスクリット語の「ITTA」も同じです。

 この文章は最後にヴィアヴァロキティ スマで終わります。ヴィアヴァロキティは観自在と訳されたところと同じ音です。観自在した。全てを見通したという意味です。これがスマ。「ました」という音で終わります。

 pañca skandha asattā śca svabhāva śūnyam paśyati sma

 照見五蘊皆空 度一切苦厄

 パンチャスカンダは、ペンタスカンダが原音に近くなります。この数詞はヤマト言葉でも使っています。

 svabhāva śūnyam

 五蘊みな「全ては 空性」ここに主格を表す語尾の「は」が入っていきます。

 すべてはシュンニヤと言いたくなる音になります。

 この文章は、パッシャティ スマで終わります。「見つけられました」という意味です。

プラジュニャ パラミタ フリダヤを読む2
iha śāriputra rūpam śūnyam śūnyata iva rūpam rūpa na vŗtta śūnyata

śūnyataya na vŗtta sa-rūpam yad rūpam sa-śūnyata yad śūnyata sa rūpam

舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色

 シュニャ(空性)とルパン(物質、色)だけが出てくる文章です。ですが最初の「イハ シャリプトラ」はヤマト言葉でそのまま読んでしまえます。

 イハ(今の時代の)というか、「今」と訳せばいいのです。

 シャリプトラは、仏陀のお弟子さんとされていますが、漢語で舎利子と書くのが正しくて、シャリの子というのがシャリプトラの本当の意味です。これだけなら、シャリ子というお弟子さんが居たと思うでしょう。

 ヤマト言葉にすれば、プトラは、(プ)トラという発音になります。「(ぷ)子ら」という音です。確かに「子」と言っているのですが、ヤマト言葉では複数形になることがわかります。シャリプトラは、「さりス子ら」それに近い音が原音にあります。人の名前ではありません。

 今○○の子ら という呼びかけになっています。

evam eva vedanā samjnā samskāra-vijñām

iha śāriputra sarva dharma śūnyatā-laksana anutpanna aniruddha amala avimala anūna a paripūrna

tasmāt śāriputra śūnyatāyam na rūpam na vedanā na samjnā na samskāra na vijñānām

受想行識亦復如是 

舍利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識

いばん言わば ヴィーダーナ〜と呼んでしまいたいくらいヤマト言葉していますが、この辺りの言葉は、日本語の中には見つけられません。サンスクリット語の訳は、漢語での意味とあまり変わりません。

プラジュニャ パラミタ フリダヤを読む3
na caksu-srotra-ghrāna-jihva-kāya-manasa na rūpam-sabda-gandha-rasa-sparşţavya-dharma

無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

 ヤマト言葉と比較しやすいところです。体の部位を示す固有名詞が並びますので、ヤマト言葉と比較していきましょう。

 ジャクシュ(め) ショートラ(耳)複数形の「ら」がついています。

 ガラナ、むしろバーナと読みます。(ばな、はな、鼻)です。

 ジッタ、ジッバァ(じた、した、舌)です。

 カヤ(からだ)です。

 マナ(心のことをヤマト言葉でもマナと呼びます)

 ここまで、かなり同じです。

 無色声香味触法、ナ ルパン シャダ ガンダ ラサ スパスタービヤ ダルマと続きますが、ここでは大きく異なってきます。ヤマト言葉では、香りを「におい」、声を「こえ」、味を「あじ」と言います。ヘブライ語と比較すると「におい」「こえ」はヤマト言葉に近くなります。ヤマト言葉が日本に来る前にカナンを経由しているため、この辺りの言語は共通する音が多くなります。トルコ語では、「あじ」は全く同じ発音になります。現地にヤマト言葉の音が残っていますので、サンスクリット語のこのあたりは、印欧祖語系統が強くでていると思います。

na caksur-dhātu yāvat na mamo-vijñanām-dhātu

無眼界 乃至無意識界

na avidyā na avidyā-kşayo yāvat na jarā-maraņam na jarā-maraņa-kşayo

na duhkha-samudaya-nirodha-mārga

無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道

次にヤマト言葉で読めるのが、無苦集滅道のところです。

na duhkha苦(どく)-samudaya集(さんダヤ)-nirodha滅-mārga道(まが、災い)

毒の音がそのままです。毒か毒の苦しみだと思われます。「まが」は曲がり道が転じて、漢語では「道」と訳されますが、ヤマト言葉では正確な意味が伝わっていました。曲がり道が転じて、「災い」とされます。

さんダヤは完成されたダヤです。ダヤの音は、「駄目」などに残ります。英語の「ダウト」にも似た音が出ます。どちらにしてもネガティブです。

ここで否定される概念は集や道といった真理的なものではなく全てネガティブになっています。

プラジュニャ パラミタ フリダヤを読む4
na jñānam na prāpti na abhi-samaya

tasmāt na prāpti tva bodhisattvānām prajñāpāramittām ā-śritya viharatya citta āvarana citta āvarana na sthitvā natrasto viparyāsa ati-krānta nįştha-nirvāņam

無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 

依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

単語の最初につくna やaは否定形を示します。これまでにも出てきましたが、ここではナ ニャナン、ナ プラピー、ナ ハビ サマヤ(サンヤ)知ることもなく、得ることもなく、完成することもない、になります。

タスマ それ故。得ることがない とは オーディンさまはな プラジュニャパラミタ アッシタ(ノッシタ)(の下、と聞いても同じ意味です)ヴィハラティ(住む、ハラ)(暮らしている)アチッターアバラナ チッターアバラナ

ここでチッターアバラナという慣用句が出てきます。

慣用句を否定し、次に肯定する文章です。この手法はここまででもかなり使われてきました。同じ言葉を否定し、次に肯定する。あるいは、肯定し、否定する流れです。

慣用句は、通常ですと、同じ意味を集めるか、対義語を繋ぐことによって作られます。「サマザマ」であれば、「サマ」と「サマ」が並んで、サマがたくさんある様子になります。

しかし、チッターアバラナは、サンスクリット語だと、チッター(心)アバラナ(覆う)となって、「心を覆ったり、覆わなかったりする」という意味になります。慣用句にならないどころか、少し意味がわかりません。

 問題点はもうひとつあります。心です。この短い般若心経の中に、心という語句が3つ含まれています。これはおかしい構図です。フリダヤは、心経の心です。マナは心、そしてチッターも心です。チッターだけ意味が通っていないことがわかります。

 ヤマト言葉で読めば、「散った」が近い音になります。(ア)バラナのほうは、ヤマト言葉でも一部音が残っていました。バラバラがそれです。バラバラとは、バラとバラが集まった状態を言います。バラのひとつはひとつに覆われた状態です。サンスクリット語の意味と近い状態だとわかります。

 ヤマト言葉で読めば、「散って、まとまらない」になって、慣用句として意味が通るようになります。

 ナスティ トバ アトラスト 「畏れることがない」と訳される部分をはさんで、

ヴィパリアッサ、離れて回って投げるの言葉が集まります。これを「間違った見解」と訳して、アッチクランダ(離れている)から ニシタ ニルヴァーナ(涅槃に達している)とされることがこれまでの流れです。

 アッチクランダがヤマト言葉に残ります。アッチとは、こっち、そっち、アッチのアッチです。サンスクリット語では「通り過ぎる」と訳されますが、ヤマト言葉でも使い方は同じです。クランダは、日が暮れる、目が眩むなどに同じ音が出てきます。サンスクリット語では「歩いていく」となっていますが、ヤマト言葉でも似たような意味として受け取れる不明な音です。ヤマト言葉はもうひとつあって、古代においては、隠れることを「くめる」とも言います。クランダの語源に近いと思われます。

「あっち眩んだ」と言っているのが聞こえると思います。

プラジュニャ パラミタ フリダヤを読む5
tryadhva-vyavasthita sarva-buddha prajñā-pāramitām āśritya anuttara samyak-sambodhim abhi-sambuddha

三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提

トリ(ギリシャ数詞と同じものです)アビャヴァーワ した サルヴァブッダ(全てのブッダ)は プラジュニャパラミタ のした アヌタラ サンヤ サンオーディン アビサンブッダ

 漢語では途中までが訳されて、放棄された部分です。アヌタラは、新潟の方言が北海道に伝わって残っている「なまら」が近いものになります。なまら(たいへん、とても)という意味です。なまら長い、なまら賢いという使い方になります。サンスクリット語では至高という訳しかたがされます。

 とても さん(完成するは大人になる)、さんオーディン(立派な王子様に)アビ(なる)サンブッダ(立派なブッダに)という流れになっています。

tasmāt jñātavyam prajñā-pāramitā-mahā-mantra mahā-vidyā-mantra anuttara-mantra asama-samati-mantra

sarva-duhkha-pra-śamana

故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪

能除一切苦

 タスマ(それゆえ)ニャタビイヤム(知るや)プラジュニャパラミタは、マハマントラである。

 このマハという言い方もヤマト言葉では使われています。「まあ」という言い方です。まあ賢い人、まあ遠い道のりと言えば、とても大変賢い人だったり、とても長い道のりだったという表現になっています。

 マントラも真ん中のト(ラ)でヤマト言葉で構築されます。真っ赤や真ん中の(マン)は中心を意味しています。トは、オトやコト、ヤマトやフモト、ミコトに同じ「ト」が表れます。言葉も昔はコトノハ、あるいはコトラという音になります。コトの端は、言葉は真実ではなく枝の先にある葉っぱのようなものだという発想です。もともとコトで言葉だったのが、現在の形になりました。オトとコト、その真ん中にマントが出てきます。オトが集まって言葉になりますので、言葉を意味するときに、複数形の「ラ」がついて、マントラという音になります。

 まあマントラ まあヴィジャ(知識の)マントラ アヌタラ(なまら に近い)マントラ アさまざまなマントラ。最後は、アで否定形になったサマザマなマントラ。つまり比べるもののないマントラを意味します。非定形でなければ、日本語でサマザマなマントラと言っているのと同じ意味になります。

 サルヴァドゥッカ(全ての毒)プラシャマナ(沈めなさい)

 最後にここに繋がります。

プラジュニャ パラミタ フリダヤを読む6
satyam amithyatva prajñā-pāramitā mukka mantra tadyathā

gate gate paragate parasamgate bodhi svāhā 

真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

サンティアン(真実)アミジャートバ(嘘ではない)

プラジュニャ パラミタ ムッタ マントラ ダディヤタ(言い換えるマントラは次のようになる)

ガテ(立て)ガテ パラガテ(ハラに立て、ハラを目指せ)パラサンガテ(はらに到達しなさい)オーディンスヴァハ(スヴァハは神に捧げる一句です)

 ヤマト言葉で読み替えます。

 サティアン アミジャートバ。ここを主語でとりますと、サチは アミジャートバという音がでます。「さちは嘘じゃない」という意味に変わります。ここがとても重要なところです。

 ヤマト言葉では、古代から「サチあれ」という言葉が使われていました。サチとは、成功のことであり、恵みのことです。漢語で幸と書きますが、これはニュアンスがかなり変わります。海の幸と山の幸も、待っていても得られるものではありません。種をまいて水をやり、育てて得られるのが幸です。

 これはここまでの空性の概念で否定されていない唯一のものです。

 文章の構図からも次のことがわかります。

「プラジュニャパラミタは、次のように言い換えられます」これが般若心経の核心部分ですが、サンスクリット語や漢語ではその理由として「真実は嘘ではない」と書かれます。これは言い換える理由になりませんので、最後の言葉が呪文として処理されてしまいます。言い換えるためには、空性とは異なるファクターを提示しなければなりません。

 サチは、文章構造の要件を満たします。文章が正しくなります。

 数字に置き換えて説明すれば、1や7はどちらが勝っているわけでもありません。受け取り方次第でそれはメリットにもデメリットにもなります。これが空性です。サチとは、1+1が2になる法則のことです。これは嘘ではありません。数字を作り出すのはあなたの行動次第ですという意味になっています。あなたが種をまいて努力すれば、かならずめぐみはありますという言葉です。

 それゆえにプラジュニャパラミタは次のように言い換えられます。

 行きなさい、行きなさい。目標に向かって行きなさい。そして達成されますように。

プラジュニャ パラミタ フリダヤを読む7
最後に文章全体を見てわかる情報を書きます。

 文章構造は、「オーディン様が次の概念を発見されました」「空性を知りなさい」「災いなどを怖れることはありません」「全てのブッダは、プラジュニャパラミタの下でみんな正しく行動されています。偉大なマントラだと知りなさい」これが、「全ての苦しみを沈めなさい」に繋がります。

 「サチは嘘ではありません」ここで、始めてプラジュニャパラミタが言い換えられます。「ガテガテパラガテパラサンガテ」です。これがこのメッセージを作った人があなたに託した本当の真言です。

 内容は次に補足します。まずは情報から精査します。

この般若心経に含まれているヤマト言葉はすべて話し言葉です

 これが時代を特定する上できわめて重要な情報でした。

 日本語は近代まで書き言葉と話し言葉が一致したことはありません。万葉仮名を使うヤマト言葉のほうは定かではありません。あちらは母国語は漢語です。ヤマト言葉の話者は、話し言葉で文献を残した例がありません。

 明治時代においてもそれは同じです。200年前の文献は検索すれば見つけることができるでしょう。この時パリ万博が開かれ、そこで日本人の会話が録音されたものもあります。聞き比べると、話し言葉はほとんど変わっていないことがわかります。

 話し言葉を文献にする場合、書き言葉に変換されてしまいます。

 なのに、般若心経では変換がされていません。音も意味も少しおかしくなっています。これが文献に起こされた当時には、すでに話し言葉も書き言葉もわからなくなっていたことに由来します。般若心経が作られた時代は、さらに古代に遡ることがわかります。

般若心経は、3000年前、アースガルドで作られている

 該当するオーディンがいるのもこの時期です。ラグナロクで民族大移動が起きているのもこの時です。

 ゆえに般若心経にはいくつかの読み方ができます。

 神様が神様の子供にあてたメッセージで、つまり「目覚めろ」という内容の話になります。こう読むと、最強の真言であろうことがうかがいしれます。実際に仏陀はこれを聞いているはずです。一番弟子とされるお弟子さんが、シャリプトラ、この名前を襲名しているからです。かなり強い信仰があったと推測できます。

 ラグナロクと関連するメッセージである可能性も高いです。ハラとは彼岸、川を渡った向こうであり、新世界と訳されます。実際に般若心経の内容では、「何も怖がらないでください、どこに行っても、あなたはニルヴァーナの状態にあります。迷ってはいけません。サチあれ。さあ行きなさい」という内容になっています。

 BC1200年頃に、世界的にカタストロフィがあり、黒海周辺から民族大移動が始まりました。これは考古学的事実です。鉄器時代になったのもこの時です。鉄の技術が世界に拡散していきます。

 般若心経がヤマト言葉で作られているところから、イザナミやイザナギと関連することもわかります。イザナミはまさに旅をして日本に到達しました。これがまさに3000年前の話です。これを追いかけて般若心経が現在の日本にあるというのも不思議な縁です。シャリプトラとは、あなたのことだとする読み方ができます。だから仏陀がこれをあなたに届けてくれたのです。

「サチあれ」これは幸あれという意味ではありません。空を越える悟りの概念で、あなたを送り出す言葉です。漢語が儒教思想により全てを奪っていました。漢語で書いてはいけませんでした。

 昔から悟りの核心部分だけを先人は我々に伝えてくれていたのです。

 今回の記事はここまで。


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