新卒プロパーから社長就任、それからのこと その3

入社から3年間、僕は営業推進課に在籍。
いろんな企画を行っていい部門だったが、他の新人や若手と同様、飛び込み営業の毎日。
研修は1か月で終わり、雑誌などの媒体からリストアップをし、
朝から晩まで飛び込み営業をしていた。

バブル後半期とはいえ世の中は超売り手市場。
どこの企業も人手不足に悩んでいた。
かといって新人がすぐに契約を取れるわけもなく、断られる日々が続いた。
門前払いも多かった。

その繰り返しの行動が結果として精魂逞しくなり、どんな企業であろうとビビることなく、
どんな偉い方であろうと緊張することなく話ができるようになった。

初契約は岐阜のゴルフ場のTVCM。
これは地元のご縁を頂いたような仕事で実力とは言えない。
営業に出て2か月ほど経った時に中区にあるアパレルメーカーからDODA1ページの契約を頂いた。

デザイナーに自分の想いを伝え出来上がった広告は今でも記憶にある。
当時、付き合っていた彼女と本屋に出掛け雑誌を一緒に見た。
自分の実力で初めて成し遂げたという気持ちが強く嬉しかった。

その後、継続的に新規契約が取れるようになっていった。
半年で同期の女子は消えたが、他の2人とはいいライバルだった。
誰しもが自分が一番できると信じ競い合っていた。
とはいえ4年後に一人退職し、7年後にもう一人退職したので、
気づいた時には同期はいなくなっていた。

それは同期だけではない。
今、名大社の社歴で僕に一番近いのはナンバー2の高井。
それでも8年か9年の開きはある。

入社の翌年は5名、その次は3名、その次は6名。中途採用も随時。
多分、それくらい。
毎年後輩は入ってきたが、誰も残っていない。
会社の激しさを物語っている。

残ったヤツが経営を任されているだけかと思うかもしれないが、
そのあたりのことは順を追って話していきたい。

若かりし頃の記憶でいえば、入社2年目に名大社でFM番組を持った。
リクルーティング広告が流行っていた時期。
「キャンパス万歳トライアル」というFM愛知の深夜番組で、
僕は担当としてクライアント開拓と番組制作を行っていた。
番組制作といってもパーソナリティーと一緒に大学のサークルを取材し、
それをラジオに乗っけるだけのこと。

結構、ナンパな仕事。
一時期は毎週そんなことをやっていたので、他の営業から見れば、
「あいつ、遊んでるな・・・」と思われていたかも・・・。

バブル期だからこその思い出。
そうそう、この頃、会社は絶好調で売上は今とは比較にならない。
利益はともかく新聞広告主体の売上だったので金額としては大きかった。

新卒向け合同説明会「企業展」も成長著しかった。
入社2年目には研修旅行でハワイにも連れて行ってもらった。
全額会社負担。
事前に小遣いが10万円支給された。

悲しいことに僕はその小遣いをハワイに行く前に使ってしまい、
旅行時はすでにお金はなかった。
ハワイでは先輩らに奢ってもらっていたような・・・。
社長にもめぐんでもらったような・・・。

けしからん若者ですね。

続く・・・。

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