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いつかどこかで見た映画 その9 『HACHI 約束の犬』(2009年・アメリカ)

“Hachi: A Dog's Tale”
監督:ラッセ・ハルストレム 脚本:スティーヴン・P・リンゼイ 出演:リチャード・ギア、ジョーン・アレン、サラ・ローマー、ケイリー=ヒロユキ・タガワ、ジェイソン・アレクサンダー、エリック・アヴァリ、ダヴェニア・マクファデン

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 昔から映画業界には、「子供と動物には勝てない」という“格言”がある。彼らの「自然な演技」を前に、観客はいとも簡単に感情移入してしまう。それにはもう、どんなオトナの役者でもとうてい太刀打ちできないーーといったところか(……まぁ、ヘンにこまっしゃくれたガキの「演技」にしろ、芸はしても本来演技なんぞするはずもない動物たちの「演技」にしろ、それが本当に「自然」なものかどうかは大いに異論のあるところだけれど)。ともかく『名犬リン・ティン・ティン』(……1920年代にこのシリーズの脚本を書きまくって大当たりし、倒産寸前の映画会社を救ったのが後の大プロデューサーであるダリル・F・ザナック!)やチャップリンの『キッド』なんかのサイレントの時代から現代にいたるまで、「子供と動物もの」映画は数限りなく創られ続けてきたのだった。
(もっとも、アメリカと日本において「子供と動物」がもてはやされる一方、ヨーロッパなんかではあまり子役や動物たちが「主役」をはる映画を見かけないような気がする。このあたり、子供は「大人未満の存在」でしかなく、動物を単なる「ペット」としか見ない西欧社会と、その「無垢[イノセンス]」を神聖視する日本やアメリカとの文化的“温度差”があるように思う。たとえば、ルネ・クレマン監督の『禁じられた遊び』やケン・ローチ監督の『ケス』などで描かれる「子供たち」は、その純真さや健気さよりも、いかにこの社会が子供たちとって苛酷で残酷な環境であるかを問い告発するための“口実”として、むしろあったのではあるまいか……)
 なかでもイヌは、まさに「動物映画界」のスター中のスターである。前述のチャップリンにも『犬の生活』という初期の名作があるし、前述のリン・ティン・ティンからラッシーなんかの「名犬もの」は映画・TVシリーズなど数限りなく製作され、アラスカを舞台にイヌとオオカミの混血犬を主人公にしたジャック・ロンドンの一連の小説『野生の呼び声』や『白い牙』も、何度となく映画化されてきた。最近(2009年)「でも『マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと』や、『ビバリーヒルズ・チワワ』なんていう映画が話題となったことは、記憶に新しいところだ。そしてこの夏公開されるディズニーの最新アニメ『ボルト』と、リチャード・ギアが主演・共同製作した『HACHI 約束の犬』もまた、イヌを主人公にしたものである。……いやはや、どうやらアメリカ映画は今また「イヌ映画ブーム」なんだろうか?
 ともかくアメリカ人は“やっぱりイヌが好き”で、それはもう日本人すら及びもしないくらいだ。そこには、開拓時代になくてはならない「相棒[パートナー]」だった頃からの民族的記憶(?)があるのかもしれないし、石を投げると精神分析医に当たるというお国柄ゆえ、彼らに“癒されたい”という気持ちが強いのかもしれない。イヌと人間との付き合いは相当古く、紀元前1万年前くらいから飼われていたという。その後も番犬や狩猟犬など、人間はイヌたちの能力を利用してきたのだけれど、何よりも彼らの「忠誠心」こそを愛してきたのだと思う。そう、ホモ・サピエンスはいつの時代も「孤独」で「暗い」生き物であり、イヌたちはその精神的な“介護(!)”を担ってきた。それゆえ、彼らは単なる「家畜」以上の存在なんだろう(もっとも『マーリー』なんかだと、イヌの方が人間サマよりも“上位”に位置して、彼らに振り回されることがヒトの「幸せ」なのだということになっている。いやはや、何たる本末転倒! とは言え、「周囲の人間を振り回すイヌ」という役を監督やドッグトレーナーの指示通りこなすマーリー役のラブラドール・レトリーバーは、やっぱり人間に「忠誠」だということになる……)。
 たぶん、日本の「忠犬ハチ公」の逸話がアメリカ人の心をとらえたのも、飼い主が死んだ後もずっとその帰りを待ち続けたというハチの生きざまゆえにちがいない。けれど、まさかこれを再映画化するとは、さすがに思いもよらなかった。先にアメリカ映画としてリメイクされた『南極物語』なら、題材的にアメリカナイズするのは容易だっただろう(……実際あの映画のイヌたちは、コトバこそしゃべらないものの、さすがディズニー映画らしく見事に「擬人化」されていたものだ。イヌがおとりになってアザラシを捕獲するとか、その「心理描写」であるとか、そのあたりの演出が巧みであればあるほど彼らの「人間的(!)」かつヒロイックな部分がドラマチックに強調され、まがりなりにもこれが「実話」であることが忘れられてしまっていたのではなかったか)。もちろんその“意外さ”には、亡き主人の帰りを待ち続けるハチの物語が、〈忠義〉を尊ぶ「日本的」な美談として語られてきたということもある。いわばハチは、“主人とともに殉じた”ことで忠犬の称号を与えられたのだった。たぶんそのあたりは、イヌの忠誠心だけでは語り尽くせない部分であり、最も「アメリカ的」な感性から遠い部分だろう……
 そこで当然考えられるのは、いかにもアメリカンなハチならぬ「HACHI」へと翻案=脚色を施すということだ。しかし、ハチが“独白[モノローグ]”をつぶやく? 別の雌イヌとのロマンスが語られる? 保健所の野犬収容係と死闘を繰り広げる? ……おいおい、カンベンしてくれよ。
 もちろん、『HACHI 約束の犬』は幸いにもそんな映画じゃない。たとえ名前がハチから“HACHI”となっても、彼はやっぱり純正の秋田犬だったし(このあたり、巨大なイグアナとなり果てたエメリッヒ版“GODZILLA”とは大違いだ)、コトバをしゃべったり、波瀾万丈の冒険を繰り広げたりもしない。オリジナル(とはこの場合、神山征二郎監督による映画『ハチ公物語』というより、やっぱり「実話」の方ということになるんだろうか?)に対して誠実であること、それが本作の大きな魅力のひとつだ。ここにあるのは、実際のハチと飼い主である大学教授・上野博士がそうだったように、ヒトがイヌにそそぐ愛情と、イヌがヒトに返す忠誠心(それもまたひとつの〈愛〉のかたちに他ならない)、その交換=交歓の物語なのである。
 その上でこの映画には、我々が知っているハチ公の話や、神山監督による『ハチ公物語』にないものがある。この『HACHI 約束の犬』は、必然的に“アメリカ人が見た「秋田犬」”という主題をはらむものであるからだ。
 先にぼくは、ハチはやっぱり純正な秋田犬だ、と書いた。この映画の冒頭は、日本の、おそらく秋田県らしい山里の寺から、たぶんアメリカの親族に向けて秋田犬の仔が贈られる場面から始まる。言うまでもなくその仔がハチなのだが、つまり、このイヌがあくまで“純日本産”の秋田犬であることが強調されているわけだ。
 その移送の途中で迷子となり、リチャード・ギア扮する大学教授と出会ってからの展開は、オリジナルとさほど大きな違いがない。けれど、このアメリカ版「ハチ公」は、随所に秋田犬の、西洋犬にはないユニークさを見つめるだろう。たとえば、ハチは投げたボールをぜんぜん取りに行こうとしない。これなど、ボールを投げられたら反射的に駆け出すようなイヌ(そう、普段はシニカルなあのスヌーピーですら!)しか知らない西洋人にとって、実に新鮮な印象を与えたことは、ギアの妻役で出演したジョーン・アレンの次の証言からもうかがえる。 
《秋田犬はとても威厳ある犬種よ。自分のペースで勝手に生きて、人間を喜ばせることに興味はないの。どこか冷淡なのに、なぜかとても紳士的よ。(中略)ハチを演じた犬たちは、本当に、本当に、荘厳だったわ》。
 映画もまた、ハチのそういった面を興味深く見つめていく。そのまなざしは、ハチを通して「秋田犬」を、ひいては「日本」そのものを見つめようとするかのようでもある。ヒトに媚びず、けれども愛情には何より深い忠誠心で応える秋田犬。それは、まさしく日本の「武士」そのものじゃないかーーと。
 そう、この映画の作り手たちは、ハチという秋田犬に日本の「武士」を見ている。さらに言いつのるなら、彼らはハチに、武士道を説いた『葉隠』の精神そのものを重ね合わせているのではあるまいか。
《恋というものの究極は忍ぶ恋である。(中略)生きている内に恋していると告げるのは本当の恋ではない。恋い焦がれ、思いに思って死ぬような恋が本物だ。相手より「私を好きですか」などと問われても、「まったくそんなことはありません」などと云って、思って死ぬような恋が究極なのだ。恋とはかくも面倒なものなのだ。主従の間の関係もこのようにありたいものだ》(「葉隠聞書二の三三」より)
 この『HACHI 約束の犬』は、ハチがなぜ「忠犬」と呼ばれたのか、その〈忠〉という文字の意味こそをこのイヌに見ようとする。そしてハチが死ぬまで主人に仕えた姿に、『葉隠』でいう「究極の恋」を見出したのだった。そしてぼくたち日本人もまた、そういった彼らの眼差し(とは、もちろん一種の「日本幻想[オリエンタリズム]」に過ぎないという向きもあるだろうけれど)を通して、あらためてハチが「最後の武士[ラスト・サムライ](!)」であったことを教えられるのだ(……そう、トム・クルーズ製作・主演の『ラスト サムライ』で、トム演じる主人公の監視役として終始彼につきまとい、最後は捨て身でその命を救う「ボブ」とあだ名された武士。“日本一の斬られ役”福本清三が抜擢されたあのキャラクターこそ、たぶん西洋人が考える「忠犬」そのものだった)。
 ……どこかの新聞のコラムで、この映画について「日本をいつまでも自分たちの“忠犬”にしておきたいというアメリカ(人)の願望」を描いているのではないか、というようなことが書かれていたらしい。いかにも新聞記者[ブンヤ]的な発想だけれど、それを言うなら、むしろこれはハチという秋田犬に託して送り届けられた、シンプルで、誠実で、どこまでも真摯な「日本へのラブレター」であるだろう。
 そして今は、何より本作の監督が『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』のラッセ・ハルストレムであったことを、心から喜ぼうじゃないか。

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