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いつかどこかで見た映画 その67 『北の果ての小さな村で』(2017年・フランス)

“Une Annee Polaire”
監督・撮影: サミュエル・コラルデ 脚本 カトリーヌ・パイエ 、 サミュエル・コラルデ  出演:アンダース・ヴィーデゴー、アサー・ボアセン、トマシーネ・ジョナサンセン、ガーティ・ジョナサンセン、ジュリアス・ニールセン

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 いきなりですが、暑い。とにかく暑い。いったいニッポンの夏って、ここまで暑かったか? などと、ついぼやきたくなる亜熱帯な日々。せめてお盆過ぎには気温もおちついてくれればいいだが、まだまだ酷暑は続くんだろうなぁ。というわけで、どうぞご自愛ください。(註・この文章は2019年7月に書かれたものです。去年の夏は暑かった……)
 そこで、というわけでもないんだが、今回は眼にも涼しく心にもさわやかな映画をとりあげてみたい。ーー舞台となるのは、北極圏に位置するデンマーク領グリーンランド。日本の約6倍の面積に人口がわずか約5万6千人というこの“世界一大きな島”は、実に土地の80パーセント以上が氷に覆われているという。そんなグリーンランドの、先住民イヌイットが暮らす小さな村に、デンマークからひとりの青年教師が赴任してくるところから物語ははじまる。
 そう聞けば、なんだか木下恵介の『二十四の瞳』や、陳凱歌[チェン・カイコー]の『子供たちの王様』みたいじゃないか、とおっしゃる向きもあるだろう。うん、まあ全体の骨子はその通り。だが、フランス人の監督がデンマーク人を主人公にグリーンランドで撮った、この『北の果ての小さな村で』という映画には、あるユニークな面白さというか興味深さがある。それは、“青年教師をはじめ登場人物がすべて本人自身である”、ということだ。つまり、この映画のなかの誰もが“自分で「自分」を演じている”のである!
 ……グリーンランド東部、氷山がひしめく入り江をわたって人口が約80名ほどの小さな村チニツキラークにやってきた、デンマーク人の青年アンダース。彼は7代にわたって続く大きな農場の跡取り息子なのだが、このまま家業を継ぐか迷っていた。そういった現実から逃避するかのように、老いた両親の反対を押し切って(……父親の「なぜグリーンランドなんだ? あそこの連中はみんな飲んだくれだぞ」という言葉ひとつに、グリーンランドという「デンマークの元植民地」で極北の僻地に暮らす人々への偏見が、強烈に伝わってくる)この村の小学校教師を自ら志願したのだった。
 ところが着任早々、アンダースは新たな“現実”と直面する。10人の生徒たちは「デンマーク語」を教えようとする彼の授業にまったく興味をもたず、勝手に遊んだりおしゃべりするばかり。大人たちからは“よそ者”として白い目で見られ、その無理解ぶりを同僚の女性から面と向かって批難されても、彼女が口にする現地グリーンランド語がわからないからキョトンとするしかない。そんな毎日にアンダースは、「自分だけがパーティーに呼ばれず、道で挨拶しても無視されてしまう」と、村でただひとりの相談相手である電気技師のジュリアスにグチをこぼす。あげくの果てに家の暖房装置が故障し、交換する部品がないと言われたことで、これまで親切に世話をしてくれていたジュリアスにすら怒りを爆発させてしまうのだ。
 とまあ、さんざんな目に遭うアンダース君だが、そこには、彼自身が無意識のうちに抱える「問題」がある。教師としてグリーンランドに派遣される前、アンダースは面接官に「グリーンランド語をおぼえる必要はない。現地の子どもたちの将来のために、あなたはデンマーク語を教えにいくのだから」と釘を刺される場面があった。彼もまた、「子どもたちには教育を受ける権利があり、それが将来への選択肢につながる」と思っている。デンマークでは当然だったその考えが、グリーンランドの小さな集落で暮らす先住民たちにとって所詮は“ヨーロッパの白人の価値観”であり、アンダースはそれを押しつけてくる「厄介者」でしかないのである。
 そして映画は、そんな両者のあいだの“溝”の深さを端的にあらわすエピソードを用意する。しばらく連絡もなしに学校を欠席していた、生徒のひとりアサー少年。その理由を訊くためにアンダースが少年の家を訪問すると、祖母から、アサーは祖父に猟を教わるため犬ぞりの旅にでていたと告げられる。「勉強がおくれると、中学に進学したとき苦労する」と説くアンダースだが、アサーの夢は祖父のような猟師になることだとまるで相手にしてもらえない。デンマークへの帰属と“同化”を当然と考えるアンダースに対し、アサーの祖母はあくまでこの土地で代々受け継がれてきた生活や文化こそが大事なんだと彼を叱るのだ。
 このあたりから、アンダースのなかでも“何か”が変わりはじめる。村の猟師トビアスから、幼い頃に体験した両親との5ヵ月に及ぶ狩猟の旅の思い出話を聞いて感銘をうけたアンダース。彼はトビアスを学校に招き、子どもたちに伝統的な猟師の仕事について語ってもらう。さらに、自らも犬ぞりを入手してジュリアスやトビアスに乗り方を教わったり、グリーンランド語を学ぶようになったのである。
 ……先にもふれたが、この作品の登場人物はすべて「本人」が自分自身を演じている。監督のサミュエル・コラルデによれば、グリーンランドで映画を撮る構想は長編第1作を完成させた2008年頃からあったという。そして、2015年にグリーンランド東海岸を旅していたときジュリアスと出会ったことで、彼の故郷の村チニツキラークを知ることになった。数ヶ月にわたって滞在し、猟師のトビアスたちとも付き合うようになったコラルデ監督は、村の小学校にデンマークから新しい教師が赴任することを聞きつける。その教師が「アンダース」ことアンダース・ヴィーデゴーなのだった。
《このとき、私はまだ自分の作品で中心となる人物を探している最中だった。猟師のトビアスか、ジュリアスか…。しかし、デンマーク人の新たな赴任を知ったとき、このコミュニティの日々を伝える最良の方法はこれだと明確になった。自分の居場所をみつけるため、新しい友人をつくるため、孤独や孤立とたたかうために、彼はすべてを学ばなければならないのだ。》(引用はパンフレット内の「監督ノート」より)
 このサミュエル・コラルデ監督は、これまでに発表した本作を含む長編4作品いずれも撮影地で実際に暮らす人々を起用し、本人の名前をそのまま「役名」としているのだという。そういえばクリント・イーストウッドも、その監督作品『15時17分、パリ行き』で、特急列車内での無差別テロに遭遇したアメリカ人青年の3人をそのまま本人役で起用していた。あるいは、アッバス・キアロスタミ監督の『クローズ・アップ』も、映画監督になりすまして(その監督とは、『カンダハール』のモフセン・マフマルバフ!)詐欺罪でつかまった青年や、彼に騙されそうになった家族たちが実名のまま本人役で登場する作品だった。こういった、実際に起こった事実や事件を当事者たちによって再構成する“ドキュメンタリー風のフィクション”作品のことを、「ドキュフィクション」というのだそうだ。
 が、それら作品とコラルデ監督の本作とでは、発想[コンセプト]は相似していても見た印象はずいぶんと異なる。この『北の果ての小さな村で』には、雪と氷に閉ざされた北極圏の小さな村で悪戦苦闘する青年を描いてはいても、そこに“再現性”はまるでない。『15時17分、パリ行き』や『クローズ・アップ』にあった物語性というか、“再現された「ドラマ」らしさ”がほとんどないのである。
 もちろんそれは、イーストウッドやキアロスタミの作品が無差別テロや詐欺といった「過去」のある事件をめぐるものであり、それを実際の人物たちに再現というより「再演」させたものだから、ということがあるだろう。ーー主人公たちの生い立ちにはじまって、まるで一条の運命に導かれるがごとくテロと遭遇するまでを描いた『15時17分、パリ行き』も、マフマルバフ監督の名をかたってある一家の人々をだまそうとした青年の、その顚末を見つめようとする『クローズ・アップ』も、事実の「再現[ドキュメント]」であることより以上に「劇的[ドラマチック]」であることに主眼がおかれている。それら事件を口実(!)に、両巨匠は結局のところここで自分たちらしい「映画[ドラマ」]を創りあげた、というべきなのである。そのとき当事者である人物たちは、そこで事件を演出どおり“演じ直す”ことを要求されている。それまで演技経験がなかったとしても、ここでの彼らはあくまで「役者」であったわけだ(……そして、特にイーストウッド作品におけるあの3人の若者たちは、実際驚くほどの「名演」ぶりなのだった)。
 一方、デンマークからはるばるグリーンランドの僻村にやって来たこのアンダース青年は、この映画のなかで自分自身の体験を演じ直すというよりは「生き直す」、あるいは同時進行で「生きる」のである。ーー彼が教師として赴任してきたのにあわせて撮影が開始され、今まさに体験しつつあることを「生きる」姿がここには映し出されている。たとえそこに演出やシナリオがあったとしても、アンダースや村人たちの関係性が“生成変化”していくさまは、単なる「事実の再現[ドキュメント]性」を超えた面白さに満ち満ちているのだ(……たぶんこの映画に最も“近い”のは、渥美清という役者をアフリカの村に放り込んで撮られた羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではあるまいか)。
 その面白さとは、「事実」そのものではなく、その“向こう”にある人間たちの生きる姿や自然の姿、その「真実」の姿にこそある。アンダース青年の空回りする熱意(と、それゆえの滑稽さ)も、獲物の毛皮をなめしたり肉を加工したり、犬ぞりを曳くイヌたちの面倒をみたりするイヌイットの暮らしぶりも、それらをとらえた映像は単なるドキュメント性を超えた“詩[ポエジー]”のような美しさと愛しさをたたえている。それは夜空を彩る壮麗なオーロラや、純白の氷河にも負けない美しさなのである。
 さて、映画は後半になって、アンダースやアサー少年をともなった犬ぞりによる狩猟の旅に出発する。彼らの最大の目的は、もちろんシロクマを獲る(=撮る)ことだ。はたしてその冒険の結果は……。
 とまれ、この詩情と優しさにあふれた「ドキュフィクション」との出会いは、ぼくにとってこの夏における大きなよろこびだった。まだまだ世界も、映画も、「面白い」ぞ!

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