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いつかどこかで見た映画 その4 『落下の王国』(2006年・アメリカ=イギリス=インド)

“The Fall”
監督:ターセム・シン 脚本:ダン・ギルロイ、ニコ・ソウルタナキス、ターセム・シン 出演:リー・ペイス、カティンカ・ウンタルー、ジャスティン・ワデル、ダニエル・カルタジローン、レオ・ビル、ショーン・ギルダー、ジュリアン・ブリーチ、マーカス・ウェズリー、ロビン・スミス、ジットゥ・ヴェルマ、エミール・ホスティナ

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 インディペンデント、あるいはインディーズ。英語表記すればカッコイイけれど、これを「自主製作」と言い直すと、とたんにマイナーというか“ビンボーくさい”響きとなる。大資本に頼らず(あるいは、得られず)、自己資金をかき集めて(あるいは、借金を重ねて)、映画なりCDなりを製作しセールスする。往々にしてそれは新進アーチストが世に出るための〈手段〉であり、何らかの注目や評価を得られれば、次はスポンサーが付いたり、会社と契約したりして新たな作品を手がけられるかもしれない。
 もっとも世の中には、インディペンデントであることを〈目的〉とする作り手たちだって存在するし(たとえば、ジョナス・メカス。あるいは、土本典昭……)、功成り名を遂げてから「自主製作」に回帰する者もいる。後者には、巨額の製作費を自らかき集めて撮った“小品(!)”ファンタジーの『ワン・フロム・ザ・ハート』で破産したフランシス・フォード・コッポラもいれば、ありあまる自己資金で大ヒットシリーズ『スターウォーズ』新3部作を易々と実現してみせたジョージ・ルーカスのような人もいるけれど、ここまでくるともはや「インディーズ」とはいえないか。それは史上最もビッグバジェットな「自主製作映画」であっても、もはや「スターウォーズという商品[ブランド]」に他ならないのだから。
 さて、M・ナイト・シャマラン(『シックス・センス』)やミーラー・ナイール(『モンスーン・ウェディング』)、シェカール・カプール(『エリザベス』)といった米英で活躍するインド出身監督のひとりとして、ジェニファー・ロペス主演『ザ・セル』によって劇場用映画デビューを果たした、ターセム(・シン)。その第2作となる『落下の王国』は、自宅以外のすべての資産をなげうって、4年がかりでこつこつ取り組んだという、まさに堂々たる「自主製作映画[インディペンデント・シネマ]」だ。しかし、早くからミュージック・ヴィデオの演出や、ナイキなどのCFディレクターとして輝かしい経歴を誇り、有名スター起用による映画第1作も大ヒットとなった“現代の寵児”が、どうしてこんなリスキーな“冒険”に挑んだんだろう? ……実は、そこに前述したコッポラとルーカスが絡んでくる。
 それはターセム監督が、友人のスパイク・ジョーンズ監督(『マルコヴィッチの穴』)に見せられたコッポラの初期作『雨のなかの女』の、撮影現場を記録した短編にはじまる。その中でコッポラ監督は、「ほとんどの人は、小さな映画作りから大きな映画作りへと移行していく。だが、その逆をする人はめったにいない」と語っていた。確かに『ゴッドファーザー』に続いて『カンバセーション…盗聴…』を、『地獄の黙示録』の後に『ワン・フロム・ザ・ハート』を、といったコッポラのフィルモグラフィは、大作・小品にこだわらない自己の創造性に忠実なものであり、しかもインディペンデント精神にあふれたものだ(……その作品が「成功」したかどうかは、ともかく)。そのことばにターセムは、あらためて自分が本当に撮りたい映画を撮ろうと決意し、長年温めていた本作『落下の王国』に着手したという次第。そしてその彼が見た短編の監督こそ、誰あろうジョージ・ルーカスなのだった。
 これは実に良いエピソードだと、ぼくは思う。そうしてコッポラ(そして、ルーカスも)の「独立独歩[インディペンデント]」な精神=姿勢こそを原動力に、私財をなげうって「本当に撮りたい映画」を監督第2作として撮ったターセム。そこに、銀行や巨大企業の支配下におかれて久しいアメリカ映画の「メジャー」な部分に身を置きながら、なおパーソナルな映画創りをめざそうとするターセムの確かな作家精神を見る思いがする。しかも、コッポラの『ワン・フロム・ザ・ハート』が大規模な美術セットや様々な最新技術を駆使しつつ、けれど映画はただ愛すべき「ラブストーリー」以外の何物でもなかったように、この『落下の王国』もまたきわめてアーチスティックでありながら、実に魅惑的で心から愛さずにはいられない、本当に美しい「ラブストーリー」なのである。
 まず、冒頭からしてターセムの審美的な映像は圧倒的だ。前作『ザ・セル』でも、ダミアン・ハーストなどの現代アート作品を引用というか換骨奪胎[サンプリング]してめくるめくヴィジュアルを造型してみせたものだったけれど、ここでも、まるでアンセル・アダムスの写真のようなモノクロの映像が、まるで静止画[スティル]のような超スローモーションによってひとつの情景を捉える。ーーそれは映画の撮影現場で、川に架かる鉄橋に蒸気機関車が停まっている。その傍らで心配そうに橋下をのぞきこむ男(犬も1匹)たちと、馬が川から吊り上げられる光景。どうやらスタントで事故を起こし、川に落下した男が助けられようとしている。そんな事態にわれ関せずといった、車でいちゃつくひと組のカップル…… 
 続いて、「昔々のロサンゼルス」という字幕とともに画面はカラーとなり、舞台はとある病院へ。時代は20世紀初頭で、先ほどの事故を起こしたロイが入院している。彼は、恋人を別の男優に奪われ、自暴自棄となって無謀なスタントに挑んだらしい。怪我と失恋の痛手で人生に絶望したロイは、オレンジ摘みを手伝って樹から落ち、左手を骨折した5歳の少女アレクサンドリアと知り合いになる。東欧からの移民の子で、父親はいないらしい。彼女のために、5人(途中から6人)の戦士が共通の敵に戦いを挑む、「愛と復讐の叙事詩」と銘打った口からでまかせの物語を語って聞かせるロイ。だがそれは、動けない彼が自殺のための薬を、アレクサンドリアに薬剤室から持ち出してこさせるためだった。
 ……このロイが語る陳腐でデタラメな「叙事詩」が、5歳の少女の奔放な想像力によって絢爛たる絵巻物となる。それを映像化するために、ターセムは4年をかけて24ヶ国以上ものロケ地を渡り歩いたという。それが、ゾウの泳ぐ海や、岩山の間に突然広がる緑の草原、青一色の街並み、エッシャーの絵のような階段の迷宮ほか、目を見張る光景となって見る者を圧倒するんである。CGにたよることなく、これら幻想的な映像を実現してみせること。それこそが、本作におけるターセムの最大の“野心”だったにちがいない。
 海と思えば、砂漠へ、緑のジャングルへ。さらにインドのタージマハルが、万里の長城が、アンコールワットが、ピラミッドが、何の脈絡もなくロイの語る「叙事詩」の背景として登場していく。しかもその風景のなかを、戦士たちはほとんどキッチュな原色使いと奇天烈なデザインの衣装でさすらうのだ(衣装デザインは、『ザ・セル』でもターセムと組んだ、あの石岡瑛子である)。それは前述の通り、まだテレビも知らず映画も見たことがない5歳の少女の想像力の飛躍をイメージしたという設定ゆえだろう(……実際、ターセムはロケ地候補の写真をアレクサンドリア役のカティンカ・アンタルーに見せて、彼女の気に入った場所を選ばせたのだという。ところで、演技経験がまったくなかったというこのアンタルーは本当に素晴らしい。歯の抜けた笑顔すら愛しいこの「まんまるおなかの女の子」は、確かに『崖の上のポニョ』そのものではないか。そういえばポニョもまた「5歳」なのだった)。
 しかしそれは、監督のターセム自身がこの気まぐれな“世界ランドスケープ漫遊(!)”に夢中になっている、とも窺える。なぜならターセムとは、『ザ・セル』でも異常性格[サイコパス]犯罪者の脳内世界を、一種の「現代美術を展示するミュージアム巡り」としてしまった男なのだから(それゆえあの映画は、犯罪心理ドラマとしての「面白さ」に作り手自身が関心がないようにすら見えたものだった……)。一介のスタントマンであるロイが気まぐれに思いついた「叙事詩」というより“ホラ話”なのだから、もともとちゃちでデタラメな内容であることは当然とはいえ、そこに「物語」としての面白さはほとんどない。では、この『落下の王国』とは、ただ美しい世界の風景を映し出す画面だけを眺め楽しむだけの作品に過ぎないんだろうか。
 だが、映画の終わり近く、ロイがお話のなかで戦士たちを次々と死なせていき、主人公の“黒山賊(アレクサンドリアの想像のなかでは、ロイ自身である)”まで殺そうとする。その時、アレクサンドリアは泣いて抗議するのだ、「やめて、死なせないで! これは『私のお話』なのよ!」と。
 ……そう、物語の途中で、5人だった戦士たちにもうひとり加わる。それはアレクサンドリア自身なのだった。彼女はこうして物語に参入し、その「愛と復讐の叙事詩」は、ロイとアレクサンドリアの「ふたりの物語」になっていたのだ。それまで、語り部であるロイのお話しを、アレクサンドリアの想像力がヴィジュアル化したものとしてのみ〈劇中劇〉はあった。それがいつしかロイとアレクサンドリアーーこの人生に絶望した青年と無垢な5歳の少女の「ふたりの物語」になって、ロイの悲劇的な結末をハッピーエンドに変更するように迫る。その時ぼくたち観客はあたらためて気づかされるのだ、この「ふたりの物語」が、類稀れなほど純粋なラブストーリーに他ならないことを。
 いや、アレクサンドリアは、馬泥棒に殺された父親をロイに重ねていただけかもしれない。しかし彼女が、もう一度ロイのために薬を盗もうとする場面は、まさに“恋”そのものではないか。お話しのなかで黒山賊(=ロイ)を殺さないでと泣きながら懇願したのは、恋人を救いたいという一心からではないのか……
 当初、ぼくはこの映画を、ロイが自分の語る「物語」によって生きる力を取り戻す〈再生のドラマ〉なのだと思っていた。けれどロイを再生させるのは、彼の「叙事詩」ではなく、ロイとアレクサンドリアの「ふたりの物語」だった(……いや、その後ロイが本当に立ち直ったかどうかは分からない。彼は「自分の物語」で“救われた”わけではないからだ。けれども作品の最後、スタント場面を集めたサイレント映画の断片が流され、そこにアレクサンドリアの声が重なる。「映画のなかで確かにロイを見た」と。その断片のなかにロイの姿があったのかどうか、ぼくには発見できなかった。けれどきっと誰もが、彼女のことばを信じるだろう。そこにロイはいたのだと。素晴らしいハッピーエンドじゃないか……)。
 壮麗かつ幻想的なランドスケープ(しかもそれらは、この地上に実在するのだ!)に彩られながら、そこに映画自身が(『ザ・セル』の時ように)耽溺するのでなく、ターセムは、5歳の少女の「ラブストーリー」こそを語ろうとした。そして、それはどんな美しい風景よりも「美しい」ものであることを、ぼくたちに教えてくれたのである。

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