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いつかどこかで見た映画 その7 『祖谷物語-おくのひと-』(2014年・日本)

監督:蔦哲一朗 脚本:蔦哲一朗、河村匡哉、上田真之 出演:武田梨奈、田中泯、大西信満、クリストファー・ペレグリーニ、山本圭祐、森岡龍、河瀨直美

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 とにかく、これほど見る前と後で印象の異なる映画も珍しい。『祖谷物語ーおくのひとー』という題名とチラシの絵柄(そこには、「山と生きる。」だの「35mmフィルムで綴る、美しき故郷のものがたり。」だのという文字が並んでいる……)などからは、いかにも自然への回帰というか日本の原風景への郷愁を背景にした、篤実な(つまりは“地味”な)映画、という感じ。ああ、都会に疲れた若者が田舎に行って、本当の人間らしい生き方にふれることで癒されるという、よくあるパターンっぽい匂いがぷんぷんしてくるじゃないか。
 もちろんそういった中から、陳凱歌[チェン・カイコー]監督の『子供たちの王様』や、ビル・フォーサイス監督の『ローカル・ヒーロー/夢に生きた男』などの忘れがたい傑作が生み出されてきたわけだし、そういったパターンそのものが悪いんじゃない(……最近でも、矢口史靖監督の最新作『WOOD JOB!〜神去なあなあ日常〜』などは、まさにそんなパターンを矢口テイストに“料理[アレンジ]”してみせた作品だった)。だが、その一方で、安易なというしかない「自然に還れ」的なエコロジー賛歌やら、その逆に田舎への幻滅を鬱々とつづったシロモノやらを、ぼくたちはどれだけ見せられてきたことか。
 ということで、正直なところ2時間49分という上映時間にたじろぎつつ“まあ、武田梨奈ちゃんの田舎娘姿を見られるだけでもいいか”という軽い気持ちで見はじめた本作。けれどこれがもう、最初にも書いた通り、こちらの予想をはるかに裏切ってくれるいろんな意味でオドロキの映画なのだった。少し前に見た(そしていささかガッカリした……)エドガー・ライト監督の『ワールズ・エンド/酔っぱらいが世界を救う!』が、あれよあれよという間に観客をトンデモな世界へと引っ張っていったのと同様に、この作品もまた、見る者をまったく予想外の物語と映像体験へと導いていく。山深い集落を舞台にしたドキュメンタリー・ドラマ風かと思いきや、実のところこれは単に田舎だの自然だのといった次元を超えた〈精神性[スピリチュアリティ]〉をたたえる、純然たる「民俗学的ファンタジー(!)」だったのである。
 物語の中心となるのは、徳島の山間にある祖谷(いや)地区の、さらに山奥で暮らす高校生の春菜(武田梨奈)と、お爺(田中泯)。そして、東京から目的もなく流れてきた青年・工藤(大西信満)だ。ある冬の日、猟に出ていたお爺は谷に転落した車を見つけ、乗っていた男女は死んでいたが、なぜか車から離れた場所で無事だった赤ん坊の春菜を助ける。以来、お爺が育ての親となって彼女を育てていた。
 一方の工藤は、祖谷の自然を守るためにトンネル工事の抗議活動を続ける外国人マイケル(クリストファー・ペレグリニ)とその仲間たちと知り合う。が、彼らに対してもどこかなじめない。しかし、山で出会った春菜やお爺の暮らしぶりにふれることで、この祖谷で自分も畑を耕しながら自給自足で生きていこうと決心する。
 ……平家落人伝説が残る“日本三大秘境のひとつ”祖谷を舞台に、春菜とお爺、工藤をとりまく日常を映画は悠然たるペースで描き出す。ガスも電気もない山奥の家から学校に通い、谷川から水をくんで畑仕事や家事をこなす春菜。お爺は猟で鹿をしとめたり、木を伐採して材木を売ったりして生計をたてている。集落では環境問題や住民の過疎と高齢化など、さまざまな“現実”がうずまいているが、浮世離れしたふたりと工藤の生活にはまるで無縁であるかのようだ。けれど、結局トンネルは完成し、山林開発で鹿やサルなどの“害獣”が増え続け、祖谷の姿も変貌をとげつつある秋、鹿たちに畑を荒らされた工藤はその日食うにも困る窮地におちいり、お爺の身体にある異変が起こるのである……。
 実際に祖谷の住民たちを画面に登場させ、その豊穣と同時に厳しい風土や四季の移ろいをていねいに切りとる(……特に、人物の顔にときおり雲の影がさし、また明るくなる瞬間や、お爺に扮する田中泯が麓からの風で吹き上げられた紅葉に包まれる場面の、まさに息をのむ美しさ。それらを画面に定着させ得ただけでも、本作は見るべき価値があるだろう)。その作風は、なぜか本作では「女優」として参加している河瀬直美の監督作品にどこか通じるものがある。
 しかし、お爺の背中に“苔(!)”がはえて少しずつ衰弱していくあたりを境に、映画もまた変調していく。そして、春菜と仲の良かったお婆が作った案山子たちが動きだす場面で、一挙に“夢と現実(うつつ)”の間へと突入していくのである。 
 もっとも、観客のなかにはここにいたっての唐突な変調ぶりにとまどい、批判的な向きがあるかもしれない。が、思えばこの映画は、最初からどこか奇妙な場面をさりげなくちりばめていたことに、ぼくたちは後から思いいたるのだ。そもそも、まだ歩けないはずの赤ん坊だった春菜が、なぜ谷へ転落した車から無事で、しかも離れた雪の川原にすわっていたのか。さらに、なぜお爺はついにひと言もしゃべらないのか……。そうしてこの映画は、まるで現代における『遠野物語』とでもいうべき“異界の物語”としての相貌をあらわすのだ。
 柳田国男の『遠野物語』は、岩手県の遠野地方における民間伝承・民話を聞き書きとしてまとめた説話集で、座敷童子や河童などの妖怪談をはじめ、いずれも“実際にあった話”として語られる。そのなかで、とりわけ強調されるのが「山」という異界であり、この書の冒頭に、《国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山人山神の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ》とある通り、そこは天狗や山姥、山人などの“もののけ”たちが住まう、「平地(=人里)」とは隔絶した世界という認識なのだった。
 そして、この『祖谷物語ーおくのひとー』における「おくのひと」もまた、そういった“「山」という異界に生きる者たち”の意に他ならないのではないか。その時、お爺もまた山人という“もののけ”であり、いっしょに暮らす春菜もそのひとり(“もののけ姫”!)なのである。
 ……冬のある日、とうとうお爺が姿を消してしまい、懸命に探しまわる春菜は奇妙な男女の乗る車に拾われる。しかし車は道をそれて谷に落下し、そこはかつて赤ん坊の彼女がお爺に救われた場所だったーーというくだりをへて、舞台は東京へと移る(……この展開の唐突さも、たぶん賛否が分かれるところだろう。が、とりあえずその是非をここでは問わないでおく)。どうやら、あれから何年かの歳月が過ぎ、今の春菜は男と同棲しながら、微生物によって汚れた水を浄化するバイオテクノロジー関係の研究所に勤めているらしい。けれど「平地(=東京)」での春菜は、ほとんど生きたまま死んでいるかのようだ。
 そして、せっかくの研究も何らかの政治的圧力で中止となり、春菜は持ち帰った微生物を隅田川に解き放つ。その時、彼女はあの案山子と“再会”するのである……。
 監督の蔦哲一朗はインタビューのなかで、《現代人が文明と自然観のバランスを失う前の分岐点のようなものを祖谷に見たのだと思います。ここからなら日本人はまたやり直せるのではないかという期待。それが祖谷を舞台にした映画を撮った経緯だと思います》と語っている。……やり直せるという期待? とはいえ、映画はその答えをはっきりと語ろうとはしない。
 ただ、東京パートの直前で、春菜を乗せた車のなかで両親とおぼしき男女が、「水が汚れれば土が汚れる。土が汚れれば動物が汚れる。動物が汚れれば人間が汚れる」と口にする。その台詞に、そういえば映画の最初の方で、はじめてお爺と出会った工藤(それは銃でしとめた鹿の腹を裂くお爺の姿をみかけたのだったが)が、思わず嘔吐した時、その吐瀉物は奇妙なほどどす黒かったのではなかったか、と思いいたる。あるいは、春菜もまた祖谷を去る直前の場面で、お爺を呼びながら茶色い液体を嘔吐して気を失ったのだった。あたかも「人間」に戻った彼女の“汚れ”を象徴するかのように。
 こうして、この現代の『遠野物語』であり、それ以上に宮崎駿監督の『もののけ姫』の見事な“変奏”である本作(……それ以外にも、さまざまなスタジオジブリ作品の影響や目くばせが見えかくれするのだが、そのあたりの詮索は実際にご覧になってお確かめあれ)は、少なくともぼくにとって「水」とその「浄化」をめぐる再生劇として、深く印象に残ることとなった。そしてもちろん、そこで再生し回復されるのは「人間」ではなく、自然(=山)と同化して生きる「おくのひと」たちなのである。ーーそう、あのラストにおける、工藤と春菜のように。
 ……それにしても、文字通りこれほど“器(うつわ)”の大きな映画が、29歳の監督による初の長編劇映画であり、しかも35ミリのフィルムにこだわっての「自主映画(!)」であるということに、あらためて驚嘆させられてしまう。この無謀ともいえる企画に乗った役者たちも立派だが、それを成立させてしまった蔦哲一朗監督やスタッフたちをこそ賞賛すべきだろう。
 日本映画に対する“希望”をまたひとつ見出せただけでも、この映画の意義と価値ははかりしれないものがある。これは、心からそう思わせてくれる1本であること。それだけは間違いない。断固支持!

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