見出し画像

いつかどこかで見た映画 その30 『嵐電』(2019年・日本)

監督・脚本:鈴木卓爾 脚本:浅利宏 出演:井浦新、大西礼芳、安部聡子、金井浩人、 窪瀬環、 石田健太、水上竜士

画像1

 嵐電と書いて、“らんでん”と読む。これを“らいでん”と読んでしまっては、『メタルギア』シリーズという人気ゲームの主要キャラ名になってしまうらしいーーなどといういきなりの余談(!)はともかく、京都出身や在住の者ではなくとも、関西人なら嵐電に一度は乗ったことがあるか、その呼称を見聞したことがあるだろう。
 そう、言うまでもなく嵐電とは京都の洛西エリアを走る路線名で、より詳しくは「京福電気鉄道嵐山線」という。下京区の四条大宮駅から右京区の嵐山駅を結ぶ嵐山本線と、右京区の帷子ノ辻駅から北区の北野白梅町駅までを結ぶ北野線を総称したのが嵐山線であり、通称「嵐電」なのである。
 通常は1両単行か2両編成で、一部では路面も走る総路線距離11キロメートルのローカルな軌道電車。だが、沿線には天龍寺や仁和寺、嵐山、東映太秦映画村など洛西の行楽エリアが数多く点在し、四条通の繁華街への足としても重宝な嵐電は、国内外からの観光客からも地元民からも親しい存在だ。もちろん映画ファンなら、今も残る東映や松竹の撮影所だけではなく、大映や日活などの映画撮影所がひしめいていた“映画の聖地”太秦も忘れてはならないだろう。
 そんな嵐電をめぐる、タイトルもそのものずばりの映画『嵐電』とは、ではいったいどういった作品なのか? 常識的に考えるなら、沿線の京都名所をふんだんに盛り込んだ「ご当地映画」か、これも関西の私鉄路線を舞台とした『阪急電車 片道15分の奇跡』のような、1本の電車または路線に乗り合わせた乗客たちの人間ドラマを描く、グランドホテル形式の「群像劇」あたりだろうか。
 もちろん、そういうこちらの安直な予想などあっさりとうっちゃられる。冒頭、夜のとばりのなかを上りと下り1両ずつの嵐電が、行き違いながら闇に消えていく。そこに、男の声で「最終電車が行ってしまったね~」、続いて女の声で「これから私たちの時間ね~」という歌が聞こえてくると、すでに観客であるぼくたちは、この映画の、藤子・F・不二雄いうところの「S・F(少し・フシギ)」な世界の住人となっているのである。
 そこから映画が描こうとするのは、それぞれの“想い”が交差しすれ違う3組の男女の「ラブストーリー」だ。ーーかつて抱いていた妻への“愛”を、ふたたびこの街で探し出そうとする男がいる。愛することに臆病だった女が、この街にやってきた男にはじめて身を焦がすような“恋”をする。この街で出会った少年に“運命”を感じて、何が何でも彼と離れまいとする少女がいる。40代、20代、10代と世代の異なる彼や彼女たちの“愛”や“恋”や“運命”のゆくえ。それらが、まさに嵐電のようにゆっくりとすれ違いながら、日常と非日常のはざまを走行するかのように物語られていくのである。
 ……鎌倉から真冬の京都へひとりで訪れた、ノンフィクション作家の平岡衛星(井浦新)。彼は、電車にまつわる不思議な話を集めたシリーズ本のため、嵐電の取材にきたのだった。
 嵐電の沿線そばのアパートを借りた衛星は、太秦広隆寺駅で取材を開始する。もっとも、することといえば構内のベンチに腰かけて電車の往来を眺めているだけ。そこに、今どき珍しい8ミリカメラを携えた高校生・有村子午線(石田健太)が駆け込んできて、走り去る電車を撮影する。そんな子午線に、青森から修学旅行でやって来ていた女子高生・北門南天(窪瀬環)は一瞬で心奪われるが、子午線は彼女を相手にしない。
 一方、太秦の撮影所近くにあるカフェで働く小倉嘉子(大西礼芳)は、朝の嵐電車内でぶつぶつと独り言をつぶやいている不審な男を目撃する。仕出し弁当を届けた撮影所で、思いがけずふたたび出会ったその男は、東京から来ていた若手俳優・吉田譜雨(金井浩人)だった。朝の電車での独り言は、京都弁の台詞の練習だったのだ。
 助監督から請われて、譜雨の京都弁の指導をすることになった嘉子。はじめはとまどいつつ、次第にお互い熱気をおびはじめた台本の読み合わせのなか、彼女はいつしか譜雨に魅かれていく。が、内気で恋にも臆病な嘉子は、台詞の練習がてらいっしょに嵐山に行こうという譜雨の誘いを断ってしまう。
 仕事の帰り、太秦広隆寺駅で途中下車した嘉子は、構内の喫茶店「GINGA」に立ち寄る。その店のマスター(水上竜士)とは幼い頃からのなじみで、彼女の良き相談相手だった。ふたりの会話のなかから、どうやら嘉子は認知症の父親を介護しているらしい。
 その店は衛星も今や常連となっていて、ある日には、子午線を追い回す南天も姿を見せる。同級生たちの説得にいったんはあきらめて青森へ帰った彼女だが、ほどなく「家出」をして子午線の学校に押しかけるのだった。そして、相変わらず拒絶する子午線を、どこまでも追い続ける南天。いつしか夜の駅に来たふたりは、そこで終電を過ぎたはずの嵐電が到着するのを目撃する。
 一方、夜のアパートで妻の斗麻子(安部聡子)からの電話に出る衛星。ふたりはかつて、妻がぎっくり腰で動けなくなって、やむなく嵐電の走る街にしばらく滞在したことがあった。そんなある夜、夜の散歩にでかけたふたり。するとここでも、彼らの前に終電を過ぎたはずの嵐電が駅に現れる。そしてそのことが、どうやら衛星と妻との関係を決定的に変えてしまった。彼は、その“過去”と向き合うためにふたたび京都を訪れていたのである。
 ところで嘉子はといえば、その後も撮影所に呼ばれて譜雨と台本の読み合わせを続けていた。意を決した彼女は、嵐山に行くことを受け入れる。翌日、台詞の練習をしながら楽しいひとときを過ごすふたりだったが、今度は京都タワーへ行こうという譜雨を、嘉子はやはり拒絶してしまう。
 そうして嵐山からの帰り、自分の台本を嘉子が持ったまま帰ったことに気づいた譜雨は、彼女の住む仁和寺の最寄り駅に先回りして待つことにする。やがて終電から降り立った嘉子は、突然の譜雨の出現にとり乱しながら、それでも自分の“想い”のたけを彼にぶつける。それを受けとめるように、キスをする譜雨。お互いの本心を確かめあったふたりだったが、そこへ、終電が出たはずの駅に嵐電が現れる。
 とまあ、ややとりとめもなく展開を追っていったが、こうして繰りひろげられる3つの恋愛模様は、いずれも“最終電車が行ってしまった後に現れた「嵐電」”によってある決定的な事態を迎えることになる。その電車にはキツネとタヌキの夫婦(!)が乗っていて、「その電車に乗った男女は別れてしまう」のである……
 何気ない日常風景のなかに、忽然と出現するキツネとタヌキの「妖怪電車」。そういえばこれは、映画版『ゲゲゲの女房』を撮った鈴木卓爾の監督作ではないか。そこでもすでに、極貧生活をおくりながら妖怪マンガを描き続ける主人公夫婦の日常には、様々な妖怪たちがこともなげに出現していた。あるいは、中沢けいの原作を映画化した『楽隊のうさぎ』でも、人間の姿をした「ウサギ」を登場させた鈴木監督なのだから、白塗りの奇怪なというより滑稽なメイクを施した「キツネとタヌキ」がいきなり“夫婦漫才”をはじめても、なんら不思議じゃないだろう。
 そう、先にぼくは3組の男女の「ラブストーリー」が、《嵐電のようにゆっくりとすれ違いながら、日常と非日常のはざまを走行するかのように物語られていく》と書いた。何でもない街並みや生活の日常風景のなかに、あたりまえのように現れる「非日常」的な世界。しかしそれがごく“自然”にすら思えてしまうのは、やはりその舞台となり背景となるのが嵐電だからであり、京都だからだろう。そもそも嵐山とは古来より“あの世”と通じ、平安時代の説話集『今昔物語』でも鬼や化け狐など百鬼夜行が跋扈する地とされてきた。そういう嵐山を終着/始発駅とする嵐電は、だから“あの世”と現世を行き来していることになる。ならば、キツネとタヌキの妖怪電車が愛しあう男女をかどわかしても、なんら不思議ではあるまい。
 もちろんそういう故事を知らなくても、「嵐電」や「京都」という街自体が“鈴木卓爾ワールド”におけるひとつの理想的な装置であり舞台であることは、見ていて素直に納得できてしまう。京都という“異界”で、嵐電に乗り込んで「S・F(少し・フシギ)」な世界に、文字通り迷い込んでしまう男と女たち……。
 一方でこの嵐電は、昔も今も沿線で暮らす人々(そのなかには、もちろん嘉子や衛星、子午線たちもいる)や、その「日常」の営みをささえ運ぶものでもある。ーー映画の後半、喫茶店「GINGA」で昔の嵐電を撮った8ミリフィルムの上映会が催される。次々と登場する様々な時代の嵐電とともに、その映像に映り込んでいる人々の姿。そして、そんな映像を見ながらなつかしむように語らう地元住民たち。鈴木監督は、“異界”と通じる嵐電とともに、一方で嵐電もまたその一部である“現実”世界を対置してみせる。そういった嵐電をめぐるふたつの世界の“はざま”に、衛星と斗麻子、嘉子と譜雨、南天と子午線それぞれの「ラブストーリー」が成立しているのだ。
 そしてそれらは、一見するといずれも何ら劇的ではない、むしろ肩の力の抜けた軽さと(……あの、キツネとタヌキの妖怪夫婦の“脱力”ぶりたるや!)、つつましいユーモアにさえいろどられている。けれどそこには、たとえ相手に想いや心が通じあったと思えても、結局のところそれらは一瞬で行き違い、永遠に過ぎ去ってしまうばかりだという深い諦念と“悲しみ”が、通奏低音のように流れているのである。
 そういえば、鈴木卓爾監督の長編デビュー作『私は猫ストーカー』で、映画の最後に主人公のこんなナレーションが入る。ーー「猫には知らない時間がある。人にも知らない時間がある。私にもあなたの知らない時間がある。あなたにも私の知らない時間がある」。
 ……そう、われわれはお互いに相手の「知らない時間」を生きて、その「知らない」ということを知っているからこそ、愛したり悩んだり別れたりしている。そうしてぼくたちは、この日々をどうにか生きている。そんな諦観と、“「知らない」ということを知っている”と開き直ることの、軽やかなすがすがしさ。きっとそんな人々の平凡な“日常”こそ、鈴木監督には「S・F(少し・フシギ)」な世界として見えているんだろう。たぶん鈴木卓爾とは、“異世界からきたエイリアン(!)”にちがいない(……鈴木監督の前作『ゾンからのメッセージ』やその前の『ジョギング渡り鳥』など、まさしく「SF作品」だったことを思い出そう。そこにおける、謎の“壁[ゾン]”によって外界と遮断された街や「モコモコ星人」なる“宇宙人”もまた、鈴木卓爾という“エイリアン”が見た「世界[ヴィジョン]」であり「自画像[セルフ・ポートレイト]」だったのだ……)。
 見終わった直後は、まさにキツネやタヌキに化かされた(!)ようにポカンとしながら、遅延性の“劇薬”のように後からじわじわと「せつなさ」が見た者の心を浸し、あふれさせていく。でも、それは不思議と心地よい。『嵐電』は、そんな“鈴木卓爾ワールド”の最も美しい成果のひとつであり“精華”である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?