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いつかどこかで見た映画 その1 『情痴 アヴァンチュール』(2005年・フランス)

“Une aventure ”

監督:グザヴィエ・ジャノリ  脚本:グザヴィエ・ジャノリ、ジャック・フィエスキ 出演:リュディヴィーヌ・サニエ、ニコラ・デュヴォシェ、ルブリュノ・トデスキーニ、フロランス・ロワレ=カイユ、エステル・ヴァンサン、アントワン・ドゥ・プレケル、バルベ・シュローデル

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 小説や映画なんかで、男を破滅させる女のことを「ファム・ファタル」と呼ぶことは、よく知られていることだと思う。日本語では、「宿命の女」や「運命の女」、あるいは「魔性の女」と訳されることが多い。まさに“男にとって宿命的”であり、“男の運命を狂わせる”女性[ヒロイン]たちである。
 もっとも、彼女らはいわゆる「悪女」やら「毒婦」(って、凄い表現ですな)といった単純な悪役とは、ちょっと違う。自分の欲望や目的のためだけに男を利用したり裏切ったりする“悪い女”に対し、ファム・ファタルたる女性たちは、むしろ男の方が勝手に入れあげ、身を滅ぼしてしまうのだから。
 例えば、ハードボイルド文学の大家ジェームズ・M・ケインの代表作で、どちらも亭主を不倫相手の男に殺させる妻が描かれていても、『倍額保険』(日本での翻訳本のタイトルは『殺人保険』)の方は保険金目当てであるとことん悪女[ヴァンプ]であるのに対し、『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』のヒロインは結果的に夫殺しに荷担するとはいえ、それは単に“田舎の貧乏暮らしから抜け出したい”という願いからだった。 確かに彼女は愚かな「売女[ビッチ]」かもしれないが、ある日、流れ者の男と出会わなければ、たぶん旦那を殺そうなどとは夢にも思わなかっただろう。そういう意味で、悪女というよりあくまで“男(と、自分自身)の運命を狂わせてしまった女”なのである(ちなみに『郵便配達~』は、イタリアの寒村に舞台を置き換えたルキノ・ヴィスコンティ監督の傑作をはじめ3度スクリーンに登場し、『倍額保険』の方も、ビリー・ワイルダー監督によって『深夜の告白』として映画化されている。しかもワイルダーと共同で脚色を担当したのが、何とレイモンド・チャンドラー! ……もっともチャンドラーとワイルダーは、どちらもまったくソリが合わなかったというが)。
 いわば、ファム・ファタルとは男にとっての“夢の女”であり、その夢を手に入れようとして男どもは身を滅ぼしていく。そして、堕ちていく男にとってそれはひとつの「愛のかたち」であり、どんなに悲惨な末路が待っていようとも間違いなく“本望”なのである(これが「悪女[ヴァンプ]」の場合、男たちは、夢は夢でも文字通り“悪夢”へと突き落とされることになる。たとえば『白いドレスの女』のラスト、キャスリーン・ターナーに騙され通した挙げ句、犯人に仕立て上げられ、すべてを失ったウィリアム・ハート扮する弁護士の、茫然とした表情。悪夢からようやく目覚めた時には、すでに、何もかもが手遅れなのだ……)。
 さて、ここで取り上げる『情痴 アヴァンチュール』は、フランス映画お得意の“犯罪がらみの恋愛心理ドラマ”であり、それ以上に「ファム・ファタル」をモチーフ(あるいは、“仕掛け[ギミック]”)にした、その一点においてなかなか興味深い作品といえるだろう。
 ……冒頭、警察の検死現場が映し出される。何の説明もないまま観客に提示される、血まみれのベッドや死体袋。どうやらこれは、殺人事件の現場であるらしい。そこから映画は、ひとりの女性のナレーションによって、この“事の顛末”をたどるべく時間を過去へとさかのぼっていく。まさにフィルム・ノワールとして典型的かつ、なかなかに見事な導入部[イントロダクション]ではないか。
 もっとも、そうして語られるのは夢遊病の女と、彼女をめぐるふたりの男たちの心理的なあやといったもの。特に「犯罪[ノワール]」らしいことも起こらないまま、映画は、雨の夜をさまよう女ガブリエルと出会い、一挙に魅せられた青年ジュリアンと、ガブリエルを愛人としている実業家ルイの、何やら不穏な空気を漂わせつつも過ぎていく日常を追っていく。その中で、物語の語り手がジュリアンの恋人セシルであることも、まもなく観客は知ることになるだろう。
 ……しかし本作を見る者は、たぶん、いつしか疑問をおぼえるはずだ。いったいどうして語り手がセシルなんだ? と。物語の中心はガブリエルとジュリアン、そしてルイなのである。その中でセシルは、どんどんガブリエルに深入りしていく恋人ジュリアンに愛想をつかして別れを告げる、ほとんどそれだけの存在じゃないか。そんな彼女が、夢遊病の女ガブリエルにのめり込んでいくジュリアンとともに、裕福な家庭を持ちながら精神的に不安定なガブリエルに執着するルイ、彼ら3人に起こった愛憎劇を観客に淡々と“事後報告[リポート]”していくことの理由は、何なのか。
 だが映画は、そいうことの一切に明確な答えを示そうとはしない。だから逆にぼくたちは、冒頭の血まみれのベッドが示していた決定的な惨劇が、彼ら3人の間で繰り広げられたのであろう予感というか確信を、いっそう深めることになる。誰が誰を殺してしまったにせよ、それはガブリエルをめぐる男たちによるものであるに違いない。まさしく「ファム・ファタル」を描くドラマにふさわしい結末[エンディング]のための布石が、最も客観的立場であるセシルをナレーションに据えるものだった……。 
 (以下の文章は、必要上、本作の核心部分をめぐる記述となります。それによって観賞の興味が減ずるとは思いませんが、ネタバレを好まない向きはご注意ください。)そう、確かに彼ら3人の間で事件は起こる。けれどそれは、ガブリエルに「運命の女」を見たジュリアンによるものではなく、ガブリエル自身の手によって遂行されるんである!
 それまでこの映画は、彼女にどんどんのめり込んでいくジュリアンの姿を中心に描いてきた。だから「ファム・ファタルもの」の帰結としては、当然ながら彼が、どういうかたちであれドラマに終止符(この場合、3人のうちの誰かの「死」によって)を打つものだと見る者は思う。……しかし映画の終盤、突然に轟く一発の銃声。それは、ガブリエルがルイに放ったものだった。その時ジュリアンは単なる第一目撃者でしかなく、その後の彼は、セシルのナレーションでガブリエルのために証言したと語られるのみで、画面にすら登場しないのである……!
 そうして映画は、犯行当時は夢遊病だったということで無罪となり、幼いひとり息子とともに街を去るガブリエルの姿を映し出して終わる。この後、彼女はジュリアンと暮らすのだろうか。やはり映画は、そこまで語ろうとしない。ただ、この、肝心なことになると口を閉ざしてしまうことでサスペンスを醸し出す、巧妙でありいささか“狡い”展開に振り回された観客は、このラストで、ある戦慄とともに思い至るだろう。これは「ファム・ファタル」ではなくひとりの「ヴァンプ」を、あるいは、その語源である「吸血鬼[ヴァンパイア](!)」を描いた映画だったのだ、と。
 ……冒頭、たっぷりと血を吸ったベッドのシーツ。ジュリアンが勤務するパリのビデオテークで、印象的に登場するF・W・ムルナウ監督の古典的名作『吸血鬼ノスフェラトウ』の一場面。夜になると徘徊し、病室の監視用赤外線カメラで獣のように眼を白く光らせるガブリエル……。
 それまで思わせぶりに点描されてきた場面[パーツ]が、一挙にひとつの「答え」を指し示す。ガブリエルは、男の血を求め、その息の根をとめる「吸血鬼(のような女)」だったのである。少なくとも作り手たちは、明らかにそう描こうとしている。そうなると、彼女の「夢遊病」そのものが“偽装”であり、ジュリアンを罠にはめてアリバイづくりに荷担させるための演技だったのか(ゆえにその“役目”を終えた彼は、用済みとばかりに映画の最後、姿すら見せない……)。だとするなら、やはりガブリエルとは『めまい』におけるキム・ノヴァクであると同時に『白いドレスの女』のキャスリーン・ターナーであるという、男を惑わし裏切るという「悪女[ヴァンプ]」以外の何者でもないだろう。
 結局、彼女が愛人である男ルイを殺す動機は、分からないまま映画は終わる(彼に幸福な家庭があったことが、一応の「理由」だとほのめかしてはいるものの)。逆にそれが、ラストにおけるガブリエルのあの表情、実はすでに何人もの男を殺してきたとしても不思議ではないといったその無表情の「怪物性」を際立たせているのではあるまいか。
 もちろん、以上はぼくという観客の“深読み”に過ぎず、まったく別の見方をする向きだってあるだろう。あの『吸血鬼ノスフェラトウ』にしても、むしろ「夢遊病の女」の危機的状況の隠喩[メタファー]として引用されていたかもしれないじゃないか、と。
 けれどこの映画のヒロインが、「運命の女[ファム・ファタル]」と「吸血鬼[ヴァンプ]」という、いずれの貌(かお)をも持った女として描かれていることだけは、確かだと思う。その両義性こそが本作の面白さであり、これが長編2作目という新鋭クサヴィエ・ジャノリ監督のしたたかな才気の証明であるというべきだ。
 しかし何より、そんな“恐るべき「犯罪的美女」”を演じたリュデヴィーヌ・サニエに、最大の拍手を贈ろう。彼女だったら、ルイのようにたとえ血にまみれて息絶えようと本望だと、本気で考えるご同輩も多いんじゃあるまいかーーただし、ベッドをともにした後で!
それほどまでに、この映画のリュデヴィーヌは恐ろしく、魅惑的だ。はぐらかしばかりの文章になってしまったけれど、そのことだけは間違いないと、最後の最後にはじめて断定しておこう。


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