「セリフを言う」という役者の仕事
役者の仕事は多岐にわたる。
書きだそうと思っても書きだせないくらいだから書き出すのはやめておく。
そんな膨大な「役者の仕事」のなかでも、けっこう重要なのが
「セリフを言う」
ってやつ。
世界にはセリフがない演劇もあるし、台本上セリフがあってもそれだけに表現の重要度の比重がかかっているわけではないっていう演劇もある。
でも、大方の「演劇」と呼ばれる舞台芸術では、セリフこそ役にとって重要なアクションのひとつだ。
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で、この「セリフを言う」っていうアクションひとつとっても、いろーんな流儀がある。
流儀というか、方法論というか、考え方というか、着地点というか。
劇の種類や、会場の環境(室内or屋外、広いor狭い、響くor響かない)、演出家の求めているかたち、それぞれによって必要とされる「セリフを言う方法」も変わってくる。
世の中に数多ある「セリフを言うことについての考え方」には、別段優劣はない。
と僕は思う。
どれもそれぞれの主義主張に沿ったアウトプットの仕方をとっているってだけだ。
わかりやすいところで言えば歌舞伎のセリフの言い方や、劇団四季の母音法。
歌舞伎が偉くて母音法が偉くない、とか、そういう話ではないじゃないですか。どちらにも流儀がある。考え方がある。
そのなかで、僕自身が思う「大切にしたいこと」っていうのもある。
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僕は、戯曲上のセリフを「必然性」を以って放ちたいと思っている。
なぜ、その人は、そのタイミングで、その言葉を選んで、それを言ったのか。
そのすべてに必然性があるからこそ、台本上にそのセリフが書かれたのだと信じている。
ぶっちゃけ「必然性」とか考えなくったって、セリフは言える。いくらでも言える。
台本に書かれた順番で、俳優がバケツリレーのように、それぞれに与えられたセリフを続けていけばいいだけだ。
だけど、そんなことは、大の大人が集まって、やることじゃないと思っている。
演劇という、ある意味、実社会から切り離された安全な場所で、実社会に起きる喜怒哀楽のドラマを扱うときに、そんな交通整理みたいなことをやるだなんてバカげているから。
たとえば、こんな場面があったとする。
A「これで七回目だ。」
B「七回目? 七回目は六回目の次だな。」
A「多分ね。」
どうってことないやりとりだ。意味なんてないやりとりに見える。
たとえばBが「ホントに七回目か?」って言ったって会話は続けられる。
あるいはBが「七回目? 神に誓えるというんだな。」っていう可能性だってあるかもしれない。
でも、この場面でBは「七回目? 七回目は六回目の次だな。」と聞き返す。この言葉を、このタイミングで選んだことの必然性を、僕は俳優としていつでもキャッチしていたい。
上のやりとりは、清水邦夫の「狂人なおもて往生をとぐ」という戯曲の一場面だ。
Aで表したのが「善一郎」という役名。Bは「出」だ。
善一郎は出の父親で元大学教授。出はある事件をきっかけに精神を病んでいる。出はときおり、順序や数についての異様な潔癖さを感じさせるような行動をとる。
出のそれまでの経験や人生の蓄積が、その場面、その瞬間の出に「七回目? 七回目は六回目の次だな。」というセリフを選ばせるのだ。他の言葉を使う可能性だって十分あったのに、なぜかその場で出が選んだのは「七回目? 七回目は六回目の次だな。」だった。
その、偶然の必然性を、僕はいつも体現したいと思っている。
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セリフは客席にちゃんと聞こえたほうがいい。
まずは空間のすみずみまで届く声量や響きを持っていること。そして、聞き取りやすい発音を身につけていること。これは言葉を扱う仕事をしている人にとって、基本中の基本だ。
だけど、「わかりやすく届く」だけが、役者に求められている「セリフを言う」仕事の役割ではない。
わかりやすく届くことだけが唯一重要な事柄ならば、日本中の演劇は、アナウンサーによって演じられるべきだ。
でも、演劇はなぜかアナウンサーではなく、俳優によって演じられる。
その理由はなんだろう。
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言葉を届けるというのは難しい。
アナウンサーにはアナウンサーの方法論があり、声優には声優の方法論がある。
タカラジェンヌにはタカラジェンヌの、劇団四季には劇団四季の、メソッドにはメソッドの、新劇には新劇の、歌舞伎には歌舞伎の、それぞれの流儀がある。
けれどそのなかで、リアリズム演劇や不条理演劇を愛する僕は、「必然性を持ってセリフを放つ」ことを大切にしている。
それを失ってしまったら、演劇が演劇である意味がなくなってしまうと思うからだ。
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