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「幸せでいてください」


今日、晩御飯を食べにいったお店の通された席に座ると。

隣りのテーブルにいたのは、僕の大好きな人だった。


小学校の頃に夢中になって歌を覚え、親に頼んで小遣いでCDを買い、音楽番組を噛り付いて見、歌はもちろんのこと振りまで覚えようとした、あのアイドル。

その彼女が、隣りのテーブルにいたのだ。


周りの人にはもちろん、本人にも気づかれないであろうほんのコンマ1秒だけ、「え・・・!?」と思考も動きも停止したが、瞬時にその金縛り状態から抜け出し、何事もなかったように席について、何事もなかったようにオーダーするドリンクを選びはじめた。

でも、表面上はそう繕ったって、身体の内側はそんな場合じゃない。目でメニューの字面を追ってみても、文字は脳みそにちっとも入ってきやしない。

当然だ。脳みそは「え、え。ええ・・・? ここに彼女が・・・、なんで、なんでなんで」的思考でいっぱいだからだ。


といいつつも、僕だって芸能の世界で生活をしている者の端くれなので。

何度もなんどもそちらの方を見る動きや、「本当に本人か!?」と確かめるための視線には、その人も当然のごとく敏感だろうと推測する。

せっかくのプライベートの時間、リラックスした空間を邪魔したくはないから、僕は僕でいつも通りに食事をすすめる。



彼女の席には、彼女と、男性がふたり。そして、小さな子どもがひとり。



僕が席について40分ぐらい経った頃だろうか、どうにも視線を感じる。

ふとそちらに目をやると、まだ2歳にはならないぐらいの男の子が彼女の横に座って、ものすごく大きな目でこちらを見ていた。

僕もそれに答えて笑いかけたり、表情を崩してみたりする。

彼も笑う。

でも、迷惑になったらいけないので、その一瞬で交流を切り上げる。



なにが彼の気に入ったのかわからないけれど、おもむろに彼は座っているソファーの上に立ち上がって、軽快に足踏みをしはじめた。腕を上げ下げしながら、こちらみをて、ニコニコと踊っている。

「わあ!どうしたの?楽しいの?」と、踊る息子に話しかける彼女。

彼の視線の先に僕がいることに気付いて、「どうもすいません」と笑いながら頭を下げてくる。

「いえいえ、いいんですよ。」となんとか答える僕。

なんか逆に、お子さんのテンションを上げさせちゃったかな、悪いことしたかな、と少し反省する。



僕は知っている。

彼女はしばらく前に、当時結婚していた相手を自殺で亡くしていること。

それからも、舞台を中心に芝居の仕事を続けてきたこと。

数年前に再婚をしたこと。その後、出産をしたこと。

食事の合間に、目の大きな息子さんを彼女の代わりに抱いてあやす男性が、きっと彼女のいまの配偶者さんなのだと思う。もうひとりの男性は仕事関係の友人みたいだ。



なんというか、「幸せになってほしいな」と思った。

その食事の間中、僕は、「幸せになってほしいと願っています」という思いをずっと自分の身体の内側に押しとどめていたように思う。

でも、なんか、それを突然、「あの、プライベートな時間なのにすいません。昔からファンです、ずっと大好きなんです。幸せでい続けてくださいね、いつも願ってます」と切り出すのも、なんともおかしな話。

だから、なにも気づかないフリをして、隣りのテーブルで普段通りに食事をした。

けれど僕は心の底から、あなたに幸せになってほしいと思う。幸せでい続けてほしいと願っている。

この僕の願いが彼女自身の人生に影響を与えるかといったら、別になにもできやしないと思う。具体的に、行動や金銭で応援をするようなこともいまでは特にない。

しかし心の中では、長年憧れていたその姿が目の前に現れた瞬間に、「ああ、幸せでいてほしい」という願いが爆発しそうなくらい膨らんだのだ。

彼女にとっての幸せが、どういうものなのかは僕にはわからない。いま、どんな悩みや苦悩を抱えてるのかも知る由もない。育児だって大変だろうし、人間関係や仕事がうまくいっているのかも僕の関与できる問題ではない。

でも、どんなかたちであれ、彼女の人生が、彼女の思う「幸せ」で満たされてほしいと思う。本当にそう思ったのです。



先に会計を済ませて立ち去るときに彼女はわざわざ僕に向けて、「お騒がせしてすみませんでした」と謝罪をしてくれた。

またも僕は「全然大丈夫です」と微笑んで返すことぐらいしかできなかった。


子どもが楽しそうに食事に加わっている姿をみて、煩わしく思う気持ちなど微塵もなかったですよという思いで僕がそこにいたことが、果たして伝わっただろうか。

仮に、その子が泣き喚いたとして、それでも自分の手元に置いて他の客に迷惑がかからないように常に気を配って食事をしていた彼女のその姿勢を見て、こちらが子どもの声や動きを不快に思った瞬間など1秒もなかったことが、果たして伝わっただろうか。

「あなたの人生に幸せが続きますようにと願っています」というこの気持ちが、果たして伝わっただろうか。


店に入るときは土砂降りだった雨は、その頃になるとすっかり上がっていた。




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