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私にとっての「楽しい」とは、を考える。


事も無げに「楽しく過ごせますように」とかつぶやいたんけど、「楽しさはグラデーションである」っていうことを僕はきちんと捉えていきたいと思う。


楽しさは、グラデーションだ。

楽しい or 楽しくない

の二元論では語れない奥深さが、「楽しい」にはあると思う。


たとえば僕は、本を読むのが好きだ。本を読むことを「楽しい」と感じる。

けれど世の中には、本なんか読むのは何よりも苦痛だ、と感じる人たちもいる。その人たちにとっては本を読むことは楽しいことなんかじゃない。

でも、僕の感じてる「本を読むのが楽しい」という感覚に、苦痛が一切含まれていないかといえばそうじゃないんだ。ここが面白いところで。

難解な哲学の本や、深い思考を必要とするタイプの本を読むときには、そこに書かれている言葉をきちんと追い求めるという行為に伴う「しんどさ」がちゃんとある。それは、場合によっては、「苦痛」と表しても間違いがないぐらいのしんどさだったりする。

あるいは、悲惨な現実を題材として扱った本もある。おぞましいような歴史的事実、人類がじっさいに行ってきた残酷な出来事。現在社会に横たわる貧困、弱者の現状。そういったものを読むときの、僕の身体に湧き上がる「苦痛」は、幻想ではないように感じる。

しかしながら僕は、そういった、読書体験に付随するさまざまな感情(それは苦痛だけではない。退屈や、悲しみや、喜びや、涙、笑い、安らかな気持ち、そんなものも含まれる)をすべて受け止めることが「楽しい」のだ。


こういった本の読み方は、多くの人からは共感を得ない。

「たくさん本読んで偉いねぇ。自分には無理だわー」

ぐらいの感想を引き出すのが関の山だ。

一方で、ある特定の人々からは深い共感を寄せてもらえる。そういう人たちは、僕と同じような心持ちで読書を愛していたり、あるいは、読書に近しいなにか、そういった趣味(または偏愛)を持っていたりすることが多い。


ここまでの文章で、「楽しく本を読める人がすごいのだ」と言いたいわけではない。僕が言いたいのは、「楽しさ」にはグラデーションがある、ということだ。

振り返れば僕はこれまでに、「たくさん本読んで偉いねぇ。自分には無理だわー」という物言いと同じ質感で

「毎週山登りですか!すごいっすね、僕には無理だ」

とか

「パチンコ・・・?うーん、あんまり興味ないです」

とか

「雪の中のスポーツは無理。寒いの苦手だから」

みたいな返答をたくさんしてきた記憶がある。

僕以外の人が感じる「楽しい」という感情を、僕自身の人生を使って理解しようとしてもそれが難しいことがある。でもだからって、その人の中にある「楽しい」を、否定してはいけないのだ。

よく見かけるじゃないですか、飲み会とかで。

「えーーー!そんなのの何が楽しいのかわからない!!!笑」

みたいな大声の反応。

「そんなの」の中には、キノコ栽培とか、苔の鑑賞とか、昆虫の飼育とか、碍子コレクションとか、そういう「世間のメインストリームではおおっぴらに認められることのなかった楽しみ」が入りがちである。

もちろん、逆の立場も見かけることがある。

世間的にメインストリームではない楽しみを持った人が集まって、メインストリームを糾弾するパターン。深夜のクラブの爆音の何が楽しいのかわからない。海でナンパとかありえない。高級外車を乗り回してなにがいいんだろう。みたいな。


人には人の「楽しさ」があるのだ。それはそれとして、誰の干渉も受けずに存在することを許されているはずなのだ。

これは同時に、

自分自身の感じている楽しさは、社会の風潮と照らし合わせたときにマイノリティだとしても、それによって自己検閲を受けるべきではないのだ

ということでもある。

他人になんと言われようと、自分自身が感じている「楽しさ」は「楽しさ」として大切にしていい。というかむしろ、大切にしたほうがいい、と僕は思う。

その「楽しさ」が、人を物理的に傷つけることとか、法律に抵触する類いのものだとしたら、認められないし、どうにか自分の心をコントロールする術を身につける必要があるが

もしそうでないのであれば、自分の感じているオリジナルな「楽しさ」は、大切にしたほうがいい。


「世間と違うから」という理由で自分のなかにある「楽しい!」の感情を否定する必要はないし、「世間と同じだから自分は月並みなんだ」と落ち込む必要もない。

人の中から生まれる感情は、それ自体がユニークな存在だ。

たしかに「喜び」や「悲しみ」や「怒り」や「楽しさ」という同じ言葉で形容されてしまうけれど、だからって、その後が指し示す感情自体がすべておなじかたち、おなじ色合い、おなじ大きさ、おなじ質感かといえば、絶対にそんなことはない。

あなたの感じる「楽しさ」はとてもユニークで、オリジナルなものだ。

「楽しく過ごそう」として、無理矢理に、人の価値観を借りることはしなくてもいい。世間がどれだけ声高に「これが楽しいことだよ!」といってきても、それが自分にとっては「楽しいと感じないこと」だったら、楽しくない、でいいのだ。


自分が何を「楽しい」と感じるのかを知っておくことは、自分の人生を豊かにすることに役立つ。

お仕着せでも借り物でもない、自分の身体と心が反応する「楽しさ」を見つけられたら、それだけで幸せに、512歩ぐらいは近づくと思うのです。



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