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僕たちは常に、人を傷つける可能性とともに生きている。


僕たちは常に、人を傷つける可能性とともに生きている。

と言ってしまうと大仰かもしれないけれど、少なくとも僕はそう思いながら生きている。なるべく慎重になろうとしている。でも、これ、とっても難しくって、おそらく、いまだたくさんの人の心に傷をつけながら生きている。


僕はときおり、歌を教える仕事をしている。マンツーマンでのレッスンもあれば、数十人に歌を教える「歌唱指導」みたいなこともする。

その仕事をすると痛感するんだけど、「教える側」というのはいとも簡単に、「絶対的強者」になれる。僕が彼らの前に立った瞬間に、僕は彼らにとっての「先生」になる。僕の言うことは彼らの行動や心の動きに、強い影響を与える。いとも簡単に。

だから、僕が無意識に放ったひとことで、目の前の相手を深く傷つけることも、いとも容易くできる。

「あー、それは変な声」
「音痴!」
「何回言ったらわかるの?」
「ぜんぜんできてないじゃないですか」
「声が小さい!もっと大きな声で!」

プロ同士の、それぞれの技術をバチバチにぶつけ合う現場、だったら百歩譲って許されるかもしれないこれらのセリフは(あ、でも、僕はこう言う言葉遣い、ぜったいにしないようにしようと心に誓ってます)、プロじゃない人たちに向けては、絶対に放ってはいけない。

なぜならそのひとことで、相手の心を殺すことができるからだ。そして僕は、そういった言葉に「歌いたい心」を殺されてきた経験のある人にこれまでたくさん会ってきた。

僕自身がそんな加害者には、ぜったいになりたくない。


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けれど、「人を傷つける加害者になる可能性」は、こういう仕事の関係性だけでなく、いたるところに潜んでいる。


さいきん僕が気をつけたいなと思っているのは、恋愛関係の話だ。

僕らは何気なく、本当に何気なく、男性に対して「彼女いるの?」、女性に対して「彼氏いるの?」と聞く。もうね、これは、多くの人にとってその行動をあらためて反省してみる必要もない、普通のこと、とされている。

でも、一歩立ち止まって考えたい。

なぜその人が「異性愛者」だとわかるんだろう。

もしその人が同性愛者だったらどうするんだろう。あるいは、その人がトランスジェンダーだったら。

僕の性的指向はストレートだ。きっと、マジョリティに属してるってことになるんだと思う。そしてマジョリティ(であるとされている)ストレートの人々にとっては、男性に「彼女いるの?」女性に「彼氏いるの?」と聞くことはしごく自然なことだ。

でも、これって決めつけですよね。ひと昔前ならまだしも、今の時代にも「ひと昔前の価値観」をそのまま持ち込んじゃうのは危険だとおもう。なぜなら、その言葉で、簡単に人を傷つける可能性があるから。

僕は、できることなら日常会話の中で、そんなに無意識に、簡単に、人を傷つけることを良しとしたくない。


上の話はジェンダーやセクシャリティの話だけれど、この話もそもそも「人は皆、恋愛をするものだ」という考察されていない前提に立っている。

けれど世の中には、人に性的欲求を抱かない「Aセクシャル」や、人に対して恋愛感情を抱かない「Aロマンティック」という性的指向もある。これは現代では、トランスジェンダーなどと同じく、「嗜好」ではない、先天性のものとみなされている。



あと、既婚者に対して「子どもは?」とすぐ聞く風潮も、僕としてはヒヤっとすることがある。もし相手が壮絶な不妊治療をしていたり、あるいは子どもを授かることができないなんらかの事情を持っていたらどうするのだろう、と思うからだ。

いや、もしかしたらそんなこと、考えすぎなのかもしれない。うん、たぶん、考えすぎなのだろう。

でも、僕自身が「考えすぎる」ことによって、他人を、無遠慮に、無意識に、安易に傷つけるという事態を避けることができるのであれば。僕は、迷いなく「考えすぎること」を選択したいと思う。


太った?
元気ないの?
痩せた?
今日はなんか覇気がないね
お、今日はデートなの?
あれ、落ち込んでるじゃん、彼氏とケンカした?
どうよ、仕事うまくいってる?

ありとあらゆるところに人を傷つける可能性は潜んでいる。

そうそう。僕自身、痩せ型の体型にコンプレックスを抱いている節がある。太りたいと努力をしても、なかなかうまく太れない。

多くの人は「細いね!」「えー、もっと太りなよ」「薄っ!笑」「痩せてて羨ましい〜」と声をかけてくださる。そこには意地悪な気持ちは微塵もないのは知っている。多くは賞賛、憧れ、そして善意のアドヴァイスに裏付けられた言葉だ。

でも、僕自身に元気がないときや、ちょっと落ち込んでいるときなんかは、こういった類の言葉に少し苛立ったり、傷ついたりする。大人気ないなと思いつつも。

だって、そういう言葉をかけてくれる人たちに、悪意はない。それどころか「山野ともっと仲良く、親しくなりたい」「山野を応援したい」と思って、そういってくださっていることがほとんどだ。

そんな人たちに向かって苛立ちを抱えている自分は、なんて半ちくな人間なんだろうと思う。だから、そういう人たちを非難する気持ちはない。

でも、僕自身が誰かに、そういう思いをさせることは、なるべく避けたいと思う。全てを回避することは無理かもしれないが、そこに向けて努力をし続けたいと思っている。

ときには易きに流れて、「あ、これはいま相手を傷つける選択をしてしまっているな」と自覚することもある。本当に申し訳ないと思う。いまもこれを書いていてひとつ思い当たったことがある。二度と同じことは繰り返さないと誓ったところ。


こう書いておきながら、人を傷つけずに生きることの難しさを痛感する。

僕自身が誰も傷つけずに生きている聖人である、とスピーチしたいがために書いたわけじゃない。むしろ、人を傷つけて生きているかもしれないというその恐怖をひしひしと感じているからこそ、これを書いているところがある。

それに僕は、表現者だ。

僕が演じた役のせいで、僕が携わった作品のせいで、誰かが傷つくかもしれない。これは、表現者には常について回る可能性だ。

だから、人をいっさい傷つけずに生きていきたいわけじゃない。

表現の上で人を傷つける可能性があることは、十分に自覚している。それでも表現をすると選択したときには、覚悟をしている。「僕の表現で誰かが傷つくかもしれない」という覚悟。

覚悟をすれば人を傷つけていい、と言いたいわけではない。それは全く違う。

そうじゃなくって、表現者としての僕は、「誰かを傷つける可能性」を理解した上で、それによって誰かから非難されるかもしれない可能性を背負った上で、表現に携わり続けようと努めているということだ。


けれど、表現の場と日常は、イコールではない。

僕は、できることなら日常会話の中で、無意識に、簡単に、人を傷つけることを良しとしたくない。

だから、日常生活の中では、なるたけ慎重になるようにしている。というか、そうしたいと思っている。胸を張って「できてます」とは言い難い。でも、努力は続けている。

うまくいくことばかりじゃなくて落ち込むことはあるけれど、トライをし続けている。

なるべくなら、無遠慮に人を傷つけることなく生きていける方がいいにきまっているから。




読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。