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私の好きな短歌、その53
澄む月をそがひにしつつ立ち戻る渚の砂にひとつわが影
土田耕平『青杉』『現代日本文學大系94、現代歌集p81』
「そがひ」は後ろ、背面。現代では意味が通じないかもしれないが味のある響きで捨てがたい。「立ち戻る」が唐突なようだが海から帰るという場面を的確に表し、砂浜ではなく「渚の砂」と言ったことで、粒状感のある写真のような画が見えてくる。
優雅とも言える四句までから一転、孤独を感じさせる結句
私の好きな短歌、その52
雨ながら今日も暮れたりわが宿の裏道通ふ牛の足音
土田耕平、『青杉』より。(『現代日本文學大系94 現代歌集』筑摩書房 p79)
初句「雨ながら」、自分でも使ってみたい。自分なら、「雨のなか」とか「雨降りて」とか「しぐれつつ」などを使うだろうが、この「…ながら」の、意味は通るが少し古風な感じがいい。解説の年譜によれば、この「わが宿」は、伊豆大島での療養生活の時に暮らしていた宿のこと。牛の足音
私の好きな短歌、その51
木枯の風吹きすさぶ夕なり机の上に洋燈をともす
土田耕平、『青杉』より。(『現代日本文學大系94 現代歌集』筑摩書房 p78)
上三句の厳しさと下二句の落ち着きの対比が、ありきたりと言えるかもしれないが、鮮やかだ。下二句は現代ではもはや出てこない句であり、それが新鮮。現代歌人が同じように詠ったら何かカッコつけているようでいやらしくならざるをえない。部屋の中までは木枯は吹かないとは言え、洋燈の
私の好きな短歌、その50
こほろぎの鳴く声とみにひそまりて庭の茂みに雨か降るらし
土田耕平、『青杉』より(『現代日本文學大系94 現代歌集』筑摩書房 p78)
「とみに」は急に、にわかに、の意。「雨か」の「か」は係助詞、結句の「らし」(連体形)とともに推定を表す。断定ではなく推定であることで、激しい雨ではなく優しい雨であることがわかる。草の下でコオロギが辺りをうかがっている様子が目に浮かぶ。静かな落ち着いた心で自然
私の好きな短歌、その47
一日に五首づつ詠むと決めてきて老人なればもう駄目だ
宮柊二、歌集『忘瓦亭の歌』より。(『宮柊二歌集 p248』岩波文庫)
岩波文庫の解説では、当時作者は糖尿病、リウマチ、眼底出血、脳血栓などで入退院を繰り返していたという。そういう苦しみのなかでの歌だが、余分な力が抜けた自在さがある。
結句の五音が意表を突く。まさに力尽きているという感じがして老練。ユーモラスであるが、「一日に五首」という
私の好きな短歌、その46
秋の日は洩れきて砂に動きをりもう一度だけ会ひたきものを
宮柊二、歌集『獨石馬』より。(『宮柊二歌集 p220』岩波文庫)
「米川稔」と題された一連中の一首。1971年(昭和46)の歌。米川稔は宮柊二と共に北原白秋の門人で親交があった。宮が1912年(大正1)生まれ、米川が(おそらく)1897年(明治30)生まれなので、米川が宮より15歳若い。米川は鎌倉在住の産婦人科医だったが、1943年(昭
私の好きな短歌、その45
いさぎよき口調をつかひ物売と応接なしき銭なき妻が
宮柊二、『日本挽歌』より。(『宮柊二歌集 p110』岩波文庫)
かつては、魚売りや果物売り、花売りなど、色々な物売りの人が町にいたと思う。百科事典や英語教材でも訪問販売があり、我が家でも買って(買わせられて?)いた。一首の場面は、買う前提でか、押し売りを撃退しようとしているのかわからないが、いずれにしても時代の勢いがうかがえる。皆が貧しかっ
私の好きな短歌、その44
朝に夕に苦しみ過しし一年のある日道路に蜆買ひけり
宮柊二、『小紺珠』より。(『宮柊二歌集 p63』岩波文庫)
1948年(昭和23年)刊行の歌集『小紺珠』の中の、「一年」という題を掲げられた一連の中の一首。「一年」とは、敗戦からの「一年」という意味。一首の前には「直かりし国の若きら面振らず命を挙げて修羅に死にゆきぬ」という歌がある。戦争、敗戦の衝撃はまだ生々しく、苦しい時代だった。その一方
私の好きな短歌、その43
ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す
宮柊二、『山西省』より。(『日本の詩歌 第29巻』中央公論社 p371』)
衝撃的な歌である。中国大陸での戦闘の歌で、まさに人を殺害する時を歌にしている。読者はどこに共感すればいいのか。短歌としての定形に即したこの文字列の背景、その事実の瞬間は血なまぐさい、およそ和歌的に優雅などとは言われぬ、残酷な命の奪い合いの瞬間なのである。
私の好きな短歌、その42
つれづれに吾のいで来し雨の日の昼のなぎさに烏ぬれをり
佐藤佐太郎、『しろたへ』より。(『日本の詩歌 第29巻』中央公論社 p363』)
「つれづれに」は、安易に使うと単に古語を使いたいだけじゃないかと思われそうだが、機会があれば使ってみたい魅力的な単語だ。ここでは初句に用いて一首への導入としている。
退屈しのぎに雨の日の海に来た、というそれだけのことだが、そこには美しく羽を濡らした烏がい
私の好きな短歌、その41
わが頭蓋の罅を流るる水がありすでに湖底に寝ねて久しき
斎藤史、『魚歌』より。(『日本の詩歌 第29巻』中央公論社 p344』)
この歌は、これまで紹介してきたような写生短歌ではない。一首では「わが頭蓋の罅」とあり、この「我」は生きてさえいないようだ。歌集の題名が『魚歌』だから、魚の死骸の視点なのか。わからないので勝手な想像を許してもらおう。湖底に水の動きがあり、骨になって横たわっている私の
私の好きな短歌、その40
荒海の浪はにごりてくだけつつ水際の砂を平らかに這ふ
窪田章一郎、『六月の海』より。(『日本の詩歌 第29巻』中央公論社 p338』)
眼前の景をそのまま歌にして余すところがない。一心に景色を見て作り上げた一首なのだろう。大げさにしようとか、ことさら美しくしようという邪念がない。読者はそのまま受け取って風景をそれぞれ頭に描いて、そこに吹く風を、激しい波音を味わえば足りる。結句「平らかに這ふ」