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司法制度の未来予想(成人発達理論を補助線として)

■ 世の中の変化は速いですよね

最近、スマートフォンを使いながら、仕事をすることが日常的になっています。10年前を振り返った時に、ここまでスマートフォンで仕事をするとは全く想像していなかったなぁ、と感じています。リモートワークも、コロナというきっかけがあるにせよ、これほど普及し、しかも機能している現状に驚きを隠せません。
20年前から10年前までの10年間より、ここ10年の方が変化の度合いはスピード感を増しており、皆さんもそのような実感をお持ちではないでしょうか。

ティール組織という組織形態が注目されていることも、その変化の顕れの一つだと考えています。
皆さんの生活に大きく影響する司法制度も、現在、種々の形で議論されています。様々な案が議論されていますが、それが皆さんの生活に直結するものであればあるほど、将来その是非について判断を求められることがあるかもしれません。
その際、どういったことを考慮して判断するのが良いでしょうか。もちろん、様々な視点を踏まえて判断するのが望ましいことではあるものの、私なりに、視点の一つになり得るであろうと考えていることを、今回の記事で書かせて頂きます。

■ 『意識の重心』と司法制度

前回の記事でも紹介した、ケン・ウィルバーの成人発達理論(インテグラル理論)に、『意識の重心』という言葉があります。社会における『意識の重心』という場合、対象とする社会の多くの構成員の意識構造がどの段階にあるか、ということを意味します。そして、その対象となる社会の制度として、重心の外面的な部分が表れてくるとされています。

司法制度の中枢の一つである紛争解決システムについて、歴史を振り返ると、時代と共に変遷しています。
戦国時代は、戦国大名を始めとする組織のトップが解決案の専権を有し、その一存で全てが決定される社会でした。決定権限の立場にある人は、特に紛争解決のためのプロフェッショナルではなく、単に組織の中で権限を持っているからという根拠のみで、独自に判断をしています。
江戸時代になり、江戸では町奉行所が設置され、町奉行(いわゆる遠山の金さんですね。)の下で裁決が下されることになりました。なお、この町奉行は、一応、紛争解決のプロフェッショナルという立場であるものの、基本的には世襲だったとされています。
明治になって、裁判制度が導入されました。その後、最高裁判所裁判官に対する国民審査制度、裁判官弾劾制度が導入され、近時は裁判員制度が導入されるに至っています。

このような一連の制度の変遷の捉え方について、様々な見方がありますが、『意識の重心』という視点は、有用な補助線になると考えています。
すなわち、社会の『意識の重心』が変化する(成熟していく)ことで、その外的表象の一側面である司法の紛争解決システムが変わる、というものです。

■ 紛争解決システムの捉え方(成人発達理論による補助線)

日本という社会の意識の重心は、レッド型(衝動的段階)→アンバー型(順応的段階)→オレンジ型(合理的段階)と変遷を遂げ、現在グリーン型(相対主義的段階)に移行しつつあると考えています。
グリーン型(相対主義的段階)は、アンバー型(順応的段階))やオレンジ型(合理的段階)を超えて含むものであるため、権威(アンバー型(順応的段階)が重視する傾向が強い。)、理性(合理的な思考。オレンジ型(合理的段階)が重視する傾向が強い。)だけでなく、人々の意思、感情を始めとする様々な要素を考慮しよう、というものです。

グリーン型(相対主義的段階)以外の意識構造の段階を簡単に説明すると、レッド型(衝動的段階)の一例に、スターリンの恐怖政治が挙げられています。世界とは、適者生存の場所であり、最も大きく最も強いものこそが勝利するというのが支配的な考え方です。戦国時代は、まさにレッド型(衝動的段階)の社会といえます。

アンバー型(順応的段階)の一例は、ナチスです。集団への所属を特別に重視し、原理主義のように、ある考えが絶対的に信奉されます。江戸時代も、お上の言うことは絶対、という考えがあり、アンバー的要素が強い社会といえると思います。

オレンジ型(合理的段階)は、通常の民主主義的な資本主義社会が、これに当たると言われてています。オレンジ型(合理的段階)の社会は、合理的かつ近代的で、達成主義的な価値観が重視されます。

日本の裁判員制度は、司法の在り方に国民の意思を反映させるべきという議論の中、国民が裁判に参加し、その感覚を裁判に反映することで、国民の司法に対する理解と信頼を深めることを一つの主眼として導入されました。
これは、まさに裁判官による合理的な判断という紛争解決の手法から、裁判官ではない、私たち国民という第三者の意思を反映させ、紛争解決システムにおいて提示する解決案に対する、より深い納得感を生み出すことを目指して作られたものとみることができます。

そもそも紛争解決のための制度は、当事者間だけでは紛争が解決できない場合に必要とされるものです。当事者のみで解決できないからこそ、別の第三者が解決案を提示することになるのですが、その解決案に100%納得できないとしても、ある程度の納得感がなければ、当事者は解決に向けた取り組みをする(判決が出れば、判決に従う。)、ということはないでしょう。
したがって、その制度設計は、関係者の納得感を醸成し、解決に向けた取り組みをしてもらうために、最も適当な方法な何かという視点で吟味されるべきものです。

イギリスでは、裁判官がバッハのようなカツラをかぶっています。日本でも、裁判官は黒い法服を着ていますし、法廷の裁判官の席は他の当事者や傍聴席よりも一段高い場所に置かれています。これは、紛争解決に向けた納得感を作り出すためには、ある種の権威付けをすることが有効であると判断した産物であると考えています(アンバー型(順応的段階))。
また、裁判官は、プロフェッショナルとして経験則に基づいた合理的な判断をすることが求められています。これは、合理的な思考に基づく紛争解決方法の提示が望ましい解決方法であると評価された結果ともいえます(オレンジ型(合理的段階))。

裁判員制度のように、裁判官以外の第三者が参加する制度は、権威付けに頼らない、さらには合理的な思考のみにも依拠しない、異なる側面・価値判断を反映させることを重視したものと理解されます(グリーン型(相対主義的段階))。そして、その制度の変遷の経過は、成人発達理論(インテグラル理論)における日本社会の意識の重心の変化と軌を一にしていると考えています。
仕事や様々な大切なことがある中で、裁判員として参加することに必ずしも積極的になれないという想いや意見は当然あると考えています。しかし、権威や合理的な側面にとどまらず、感情や意思を反映させることも大切だよね、という実感さえ持てれば、裁判員制度の捉え方、さらにはそれに向きかう姿勢も少し変わってくるのではないでしょうか。

■ 未来予想(裁判のAI化の可能性)

さらに、このような考え方は、将来の司法制度としての紛争解決システムの在り方、あるいは今後実際に我々に提示されるであろう紛争解決システムについて、その是非の判断を求められた際、有用な補助線になると考えています。

現在、日本の司法制度でも、裁判手続のIT化が検討されていますが、将来、AI(人工知能)による判断の是非の検討を迫られる日が来るかもしれません。
現在のAIの開発手法等からすれば、AIによる紛争解決案は、基本的には、過去の膨大な紛争事例を集積し、統計的アプローチによって提示するものになります。過去の膨大な裁判例等に関する情報をAIにインプットさせ、様々な解決案をシミュレーションした上で、最も解決の可能性が高いと判断された案を提示するというものです。
当然、シミュレーションの過程で事案の個別要素を加味することになりますが、この手法は、統計論・確率論的なアプローチです。

しかしながら、AIによる精密なシミュレーションに基づいて提示された案だからといって、私たちはこれに納得できるのでしょうか。
納得できる場合もあると思いますが、私は、多くのケースで、そうならないと考えています。企業間の紛争を含め、人間の社会活動の営みは、合理性や確率論といったロジカルなもので単純に割り切れるものではありません。特に、社会の意識の重心がグリーン型(相対主義的段階)以降になれば、意思・感情といった要素が一層重視されるため、上記のAIのアプローチによって納得感が生まれる状況は、限界があると感じています。
したがって、初期的・第一次的な判断はAIがする、基礎的な情報はAIが提供するということはあり得るとしても、人間同士の紛争解決のために、第三者の人間が関与して判断するという仕組みは、当面無くならないのではないでしょうか。

もっとも、これはAIの開発手法が合理的な判断を重視するという点に主眼が置かれて開発している場合を想定しており、将来、AIが人間の意識や感情すら考慮できるよう日が来るかもしれません。ただ、それでも、人の関与する仕組みは残っていくと考えています。

紛争解決システムは、解決案に対する関係者の納得感を必要とするところ、「納得感」の要素は、非常に多面的で、かつ、曖昧なものです。
じゃあ「納得感」ってなに??、ということになるのですが、自分自身の経験、紛争当事者の感じ方を振り返ってみると、結局、他者にどれだけ共感してもらえたか、寄り添う気持ちを持ってもらったか、という点が大きいと考えています。そして、その共感や寄り添いは、感情的な面のみならず、全人格的な部分にまで及びます。そうであるならば、「共感」や「寄り添う気持ち」は、AIと人の間より、「人間」同士の方が生じやすいのであり、したがって、人の関与は継続すると予想しています。

冒頭にも書かせて頂きましたが、世の中は目まぐるしく変化しています。私たちの価値観も、その変化に伴って変容しつつあります。物質重視の社会から精神重視の社会の移行しつつ現状、それはまさにオレンジ型(合理的段階)が重視する人間の外面に現れるもの(物質など)から、グリーン型(相対主義的)が重視する人間の内面に現れるもの(感情など)に重きが置かれていっている状況を端的に示しているといえます。そして、私たちの価値観や大切に思うことが、人間の内面に関係するものになればなる程、私たちが感じる納得感も、より内面的な要素が重視されるため、人間ではないAIが代替できない、ということになると感じています。

そのように考えていくと、司法に関与する我々のような法曹も、共感や寄り添う姿勢が、求められる素養として一層重視される日は近いのではないでしょうか。同時に提示される紛争解決案は、過去の解決例や合理的な思考・判断に基づくものに限られない、様々な要素が包摂された上で判断される枠組みに変わっていくと思われます。
実務を経験する中で、裁判官も、様々な要素を加味して判断していると感じていますが、その比重・重要性がより高まってくると考えています(裁判(紛争解決システム)のティール化と言えるかもしれませんね。)。

コーチの垂水隆幸さんから「発達(成熟)の良い側面の一つは、人間をより人間らしくすることだ。」という話をしてもらい、その通りだと感じました。裁判員制度、さらに将来誕生する新たな紛争解決システムも、「その制度が、人間をより人間らしくするものであるか」という視点で吟味されれば、きっと間違った方向には進まないでしょう。そして、裁判員制度は、誕生の背景にある目的や趣旨に鑑みれば、司法制度の健全な発達(成熟)の一つの事象と捉えることが出来るかもしれません。