無題③
中学に上がって4ヶ月ほど経ったころ、吃音がほとんど治った。治してくれたのは鈴木先生という人だった。小学校のころの担任のような最悪な鈴木先生もいれば、神様みたいな鈴木先生もいる。
鈴木先生は病院の先生ではなく、剣道の「師範」だった。
*
僕は中学校に入りはじめての部活で剣道部に所属した。
吃音が入るべきでない部活ランキングトップ3に入るレベルで発声を強制される部活だが、なぜ入部したかというと、スマホが欲しかったからだ。その剣道部は異常に練習がきつく、平日の練習に加えて地元の剣道道場の稽古の参加が強制されており、帰宅が夜遅くになるためスマホの携帯が推奨されていた。
しかし両親はスマホを買い与えてはくれなかった。たしか何かの成績の条件を達成したら渡すということだったが、そんなものは達成できるはずもなく、結局高校生になるまで与えられることはなかった。
いまは、スマホを見ることより、勉強など他のことに時間を割かせたいという計らいを理解することができるが、当時の僕は連絡手段を与えてくれないことに腹が立ち、親を心配させてやろうと、遅い時間の練習終わりに、深夜の街を散歩して時間を潰していた。
ただ僕が寝不足になるだけだった。
*
武道、と聞けば、それは素晴らしく厳格で平等に礼儀を尽くすことで成り立っているものと思うことだろう。実際そんなことはなかったし、結局は「人」の問題だった。
剣道の道場内でも、明確な差別があった。これは僕だけがどうこうという話ではなく、所属している中学校の問題だった。その道場はおもに2つの中学校の生徒が半々くらいの比率で通っており、僕らに剣道を教えていたのは、僕らとは違う、もう片方のほうの中学校出身の先生だった。
北島先生は、剣道を7年やっている母校の生徒に厳しく指導する一方で、剣道を始めて1年も経たない他校の僕らになにかを教えることはなかった。本当になかった。夜6時から9時半まで、必死に稽古をしているのに、ひとつも得るものはなく、疲労だけが溜まった体で家に帰る毎日だった。
しかし、夏合宿から担当の師範が変わった。(おそらく)70代にして、防具からはみ出そうなほどの筋肉と脂肪を蓄えた鈴木先生は、誰に対しても平等に理不尽に熱血に厳しかった。
先生は、今日からお前が準備体操の掛け声をやれ、と叫んだ。僕はそのころもまだ吃音を持っていた。
掛け声の最初の「いきまーす」が、僕の苦手な母音で始まる言葉のため、若干つっかえてしまう。
僕はやや小さめの声で「っきまーす」というふうに誤魔化して叫んだ。
「ちゃんと言え──────‼︎」
人間から出ているとは思えないくらいの声量で怒鳴られながら、竹刀で腹を殴られた。
もちろん胴(という防具)はつけている。痣にも傷にもならない。が、信じられないくらい痛かった。衝撃だけが鳩尾にダイレクトに伝わり、膝が震えた。
「もう1回──‼︎」、竹刀を振りかぶって構えたまま先生が言う。先生は僕をまっすぐな目で睨む。
おそらく僕がきちんと発声するまで、これを繰り返すつもりだと、本能的に悟った。
その瞬間、いままで僕を支配していた喉の緊張と、発声しようとしたとき起こる脳のフリーズが、すうっと消えてなくなった。
奥まで繋がった鼻水を引き抜いたときのような、なんとも言えない感覚だった。
*
どれだけネットで調べても、僕のような形で吃音が改善した人は見受けられなかった。
正直あんなものは体罰だし、僕がトラウマを抱える暴力そのものだった。僕がそれを中学3年間受けて、嫌な気持ちにならなかったのは、先生には僕をなんとしてでも成長させてやるという強い気持ちがあったからなのかもしれない。
こういうふうな経験がある人間が体罰肯定派になるのだろう。僕は結果としてその先生のおかげで改善したものがあったが、しかし、暴力はどんな場合も例外なくすべて許してはならないものだと思っている。
暴力を使ってしまえば、体罰肯定派の意見だって、おそらく変えられる。
*
ほぼ治ったとはいえ、いまでも疲れたり眠くなったりすると、吃りはでてくるが、それでも十分だ。
自分の母親を「お母さん」と呼べるようになれば、それで。
(続くかは未定)