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好きなもの語りvol.03 - 同人とか民俗学とか「東方Project」

Vtuberは見ないのですが、
「粛聖!! ロリ神レクイエム☆」がバズっていて聴いたところ、
しばらく脳にこびりついて離れねぇ…
脳から出ていってくれ…しぐれうい…

これさ、なんか懐かしいんだよね…昔のネット民が好きそうなネタを散りばめているのはそうなんだけど、それだけじゃなくて、この感じ…なんだろう…
と作詞作曲を調べてみたら、IOSYSか〜

東方Projectを知ったのは、
ニコニコ動画でみた「魔理沙は大変なものを盗んでいきました」でした

IOSYSといえばこれのイメージ

僕の東方との出会いですが、
ニコニコ動画で知り、芋づる式に、
原作が弾幕STGであることを知り…体験版をインストールし…住んでいる地域では売っていないのでヤフオクで紅魔郷を買い…さらに同人文化を知る…とはまっていったのです
時期としては風神録と地霊殿の間あたり…

茨華仙(2012年くらい?)までしか追っていないのでそれ以前までの話になります


同人・二次創作文化でオタク達がワイワイみんなで楽しむ…
東方Project原作の世界観の沼…
弾幕STGの面白さ…


東方Projectについて語ります

同人文化とインターネット

今は揉め事が多くなるからかガイドラインが整備されているのですが、昔はかなりゆるく、二次創作はほぼ好きにやってねというのが製作者ZUNさんのスタンスでした
東方Projectがそもそも日本に伝わってきた物語の二次創作のようなものだから、と言う理屈でそう言っていたようです

古事記も天武天皇の時に天皇の権威を強める目的で「天皇は国作りの神の子孫なのだ」という内容で編纂された、いわば創作の物語なんですよね(史実だったということも証明されているようですが、その辺の詳しいことはよく知りません)
古事記の神様が出てくるエンタメ作品は無数にあります
それって、神様というキャラクターを使って自分の好きなようなキャラクターに仕立て上げる…二次創作じゃん!

そういうのを知っていて上記のようなことを言っていたのでしょう

なんだか、そのスタンスが当時、謙虚に感じて好感が持てました
今思うとマーケティング戦略の一環だったのかもしれませんが…

このスタンスのせいなのか
同人文化が非常に盛んで、原作の力だけでなく同人文化によって東方は有名になりました

キャラクターの性格付けも、
原作では正直なところ曖昧でみんな何言っているのかいまいち分からんな…といった感じなのですが、
二次創作や東方を語るインターネットの人たちの中で共通認識が作られてキャラクターの人格が作られてゆく…
その流れがすごく自由に感じました
東方ファン全員が、自分たちが東方を作ってきたと感じられる空気だったような気がします

また、同人文化の中での創作活動がとても楽しそうだなと感じました
当時、供給されるメディアといえばテレビ、出版社経由の漫画などでした
でも、同人での創作活動は上手くても下手でも内容が倫理に反していてもなんでも自由なんですよね

オタク向けショップの無い街に育つとそんな同人活動をやっている人がいることなど、知らず想像できず…
東方の世界観やキャラクターを使って、各々自分のできる方法で創作表現し、発表する…
この界隈・文化に憧れを抱きました


インターネットは、
僕にとって実世界では触れられない広い世界を知るためのツールでしたが、
東方の同人文化を見ていて、
「憧れの自由な表現の場、インターネット」としての色を強めていきました

世界観の沼…民俗学・妖怪・日本の宗教

東方は製作者のZUNさんが民俗学オタクなんです

僕は、子供の頃から2ちゃんねるオカルト板や山海生き物に触れまくった影響によって、民俗学を好きになる素養が育っていた…

東方はキャラクターやゲームをきっかけに、
日本の民間伝承…そこからくる妖怪など…民間伝承起源の神道、その後の仏教との習合など
日本の民間信仰の中から生まれた妖怪や歴史上の人物などを美少女キャラクターにした世界観がベースになっています

東方とその周辺の同人活動している人達の発信によって、
僕にとっては民俗学の入り口が開かれ、すっかり民俗学ファンになってしまいました

東方の世界観の大枠の設定が民俗学の概念に基づいていて、
知れば知るほど面白い!

あれこれあるけど、一例だけ語ろうかな…

博麗大結界と八雲紫、マレビトと境界

東方は、幻想郷という日本の山奥に結界で隔絶された空間があり、
その中で妖怪や神霊、亡霊などの人でない存在や、
それ以外の人間が里で暮らしている設定です

主人公の博麗霊夢は、
この幻想郷と外の世界を隔てる結界を管理する役目と、
幻想郷内で誰かが起こしたトラブル(異変)を解決する役目
を担っていて、
ゲームに沿って物語があるのですが、この設定が面白いんですよね

外の世界と隔絶している結界は、博麗大結界という「常識と非常識を分ける結界」という設定です
この結界によって、幻想郷の外の世界で
いないものとされた・身近でなくなった=非常識の存在になった、
妖怪や神様などが幻想郷に入ってきます
これを東方では「外の世界で幻想になった」と表現していました

新しく入ってきた妖怪や神様たちは大抵、我が強く幻想郷の風土と衝突してトラブルを起こします
それを主人公達が懲らしめて、その後幻想郷に受け入れられる…
受け入れられた後は、なにかしら幻想郷に理をもたらしながら上手くやっている
という感じなんです

民俗学の重要概念に、折口信夫さんの提唱した「マレビト」という概念があるそうです
昔の日本人は自分たちの村に旅人が来ると、神様などと同一視して丁重にもてなしたというお話が多いようです

昔話でも、旅人が訪ねてきて家に利益と迷惑のどちらも残してゆく話が多いですよね
現実的には、村社会では近親相姦などで血が濃くなりすぎて子が丈夫に生まれないから外からの血を入れたいなどの理由などがあり、口伝の中で美化されて変化していった…などとも言われているようですが…

小松和彦さん著の「異人殺し」の本も読んだことがあります
マレビトをもてなして富を得る一方で、外から来た旅人を殺してしまい荷物などを奪う、そのマレビトの祟りを畏れて供養のために祀る
ということもされていたようです

また、民俗学では「境界」も重要な概念です
村の中の人は、村の入り口を村の内と外の境界と捉え、
外側から来る人を「常世」死者や神のいる世界と捉えたそうです

川など向こうに簡単にはいけない地理的な制約の大きい場所は、境界です
三途の川ってよく言いますよね

民俗学的視点では、
いろんな事象が「境界」の概念で説明をつけられるんです

この「マレビト」「境界」の民俗学で重要な概念と
「幻想になった妖怪や神様達」「博麗大結界」の存在が似ていて意識されているのだと思います

日本に村が点々としていたころの社会の感覚・文化・考え方は薄まりつつも現代の人々の意識にもまだ残っていると思うんですよね
日本人は内向的で外から入っているものに対して排他的とかよくいうよね

なので、この幻想郷のあり方には納得感というか…
あ〜なんか…うーん、なんか…あるよね〜感があるのかもしれません

幻想郷を作った妖怪は八雲紫といって
能力は「境界を操る程度の能力」です
胡散臭くて何を考えているかわからない性格という設定ですが、様々な作品で出てきて意味深なことを言いっぱなしにする…みたいな登場をする
しかし明らかに重要なキャラクターとして扱われているのです

「八雲」はスサノオノミコトが日本神話でヤマタノオロチから妻のクシナダヒメを守るために何十もの垣を作ろうという「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」の句からきているのだと思います
垣とは内と外を隔てる境界です

「紫」は色のスペクトル、可視光の波長が一番長いもの…
見える光と
見えない光、紫外線
の境界に位置する色ですね

どっちも概念的な「境界」を表しています
重要なキャラクターに「境界」に関連する物事を当てはめています
このように知れば知るほど、いろんなモチーフが隠れているのがわかるのです!

あと、外の世界で絶対に無いとされたもの=非常識になったもの
が幻想郷では、
あるもの=常識

になるという設定が好きです
妖怪も怪異も神仏も、
存在する/しない
の境界が曖昧になる感覚があって面白い〜〜〜


弾幕STGおもしろい

同人文化や世界観も面白いのですが、ゲームとしても面白いんですよね
弾幕STGと言われるジャンルなのですが、
敵が撃ってくる大量の弾を、あたり判定の小さい自機でギリギリで避け続ける…
やればやるほど、上達と避けパターンを覚えて作ってゆく、練習して自分が上達してゆく喜びがありました

弾幕STGに関しては、東方からはじめてCAVEというメーカーのアーケードSTGにはまってゆくのですが、それはまた別の機会に…
CAVEシューのあるゲーセンがどんどんなくなっていって寂しい…札幌なんてもう駅前のGiGOにしかないよ…

CAVEのことは置いといて、、、
東方のゲームとしての魅力は、やっぱりスペルカードシステムと音楽ですね!

キャラクターそれぞれにモチーフや、元ネタとなった妖怪・神様・歴史上の人物などがいるのですが、それに関連した技として弾幕を使ってくるのです

その形だったり弾の動き方だったりもまた考察の余地がたくさんあって面白い!

あとは、音楽ですね
東方アレンジの同人音楽が広まりに広まっていましたが、
原作の音楽がそもそも疾走感があってかっこいい!

でも、音楽単体で聴くと良いというより、ゲームの進行と合わせた全体的な体験が何よりの魅力なんです

妖怪の山で厄を集める厄神の近くに向かっているおどろおどろしさを背景の印象とともに表現した2面道中曲「厄神様の通り道」

それが終わって、開けた紅葉が広がる山々に抜けた時の3面道中曲「神々が恋した幻想郷」の開放感

音楽、弾幕、ゲームそれぞれ単体で面白くしよう!
でなく、
個々の要素、全ては世界観を表現するためのものというスタンスが製作者にあるようで、それが反映されているようです

神主ZUNのクリエイターとしてのスタンスが好きだった

上記でも書きましたが、製作者のZUNさんは、
ゲームは「こういう遊び方をさせたい」というコンセプトから出発して、それに合わせたシステムやルールを作り、世界観が後付けされる
のでなく、
「まずは世界観、そこからそれにマッチしたシステムやルールを作ってゆくことが必要だ。それによって全体の調和が取れる」という考えを持っていたようです

プレイ中しきりに、ゲームの創り方ってこうだったっけ?と疑問に感じてました。
というのも、恐らくこのゲーム、「一つの場面を色んなケースからプレイするようなSTGを創りたい」
みたいなコンセプトだと思われるんですが、予想ではこのコンセプトからシステムが創られ、システムから世界観が創られたと感じてならない。
このとき私は、ゲームは、創りたい世界観を用意して、その世界観が新しい
システムを生み出すのではないだろうか、と思わずにはいられませんでした。
よく思い出すと、昔のゲーム(特に名作と呼ばれるもの)は殆どそうだった気がします。
こういう世界観のゲームを創りたい、と言う発想が、新しく且つ世界観にマッチしたシステムを生み出していたと思う。

先にシステムから用意した時点で、統一の取れたゲームが出来るかは運任せになり、運が悪いとゲームは主軸を失い、濁った小システム集に成り下がる恐れがある。
それに、新しい発想のシステムが生まれるのは、システムが世界観を構築できた後になるという、鶏と卵のような状態に。

STGのゲーム性はシステムに拠るものだが、システムは世界観に拠るのだと思う。
決して分離するものでも、並列に見るものでもなく、システムの親は世界観であるのだろうと。

上海アリス幻樂団 旧ブログ「東方書籍」2003年05月04日(日)

この考え方が正しいかどうかや、他ゲームを下げて話している点はさておき…
僕はこの
「統一感を得るために世界観を表現しようというところから全てをスタートする」
という考え方が好きで自分の直感とぴったりマッチすると感じました

ゲームでなくても創作活動全般に当てはめても良い考え方なんじゃないかな〜と思っています

自分で何かを作る時は常にこの言葉を思い出していた…!


このnoteのシリーズ一区切り

ここまで、インターネット大好きっっっっ!!!な話でした

インターネットによって、興味が拡がったり、選択肢や考え方の多様性を知ることができた!
インターネットが世界を広げてくれた〜

この後、初期Twitterに出会い…
2ちゃんねる、テキストサイト、東方の同人など
とは全然違う方向で、自分のできる方法での創作活動をすることになり…

ブログがブームになったときに好きだったブログなども語りたいが…

それはまた別の機会に…

しかし、創作・表現活動によって世界が広がっただけだと折り合わせることのできない、
自分の気質や生い立ちによる性格・行動パターン・能力と、
社会・世界とのギャップなどに苦しむことにもなる…

次以降は、
僕が社会・世界との関係が分からなくて辛かった気持ち
それに寄り添って前に進むための力をくれた
そんな、好きなもの語りをしてゆきます

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