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なぜ、人は山小屋に惹かれるのか? | 編集者の推し本

『山小屋の灯』小林百合子=文、野川かさね=写真(山と溪谷社)

突然ですが、山と溪谷社の社員のイメージは、どういうものでしょう?
みんな、登山経験が豊富。自宅には登山装備の一式が揃っていて、ふだんも十徳ナイフくらいは持ち歩いている――。

その通り、実際にそういうかっこいい方が多いのですが、他社から中途入社した私などは、今まで登った一番高い山といえば、実家からわりと行きやすかった鳥取県の大山(しかも小学生のとき)というレベル感です。

そんな、山にさほど関心のなかった私がめずらしく読んでいたヤマケイの本が、『山小屋の灯』でした。

夕暮れに青くしずむ風景のなか、オレンジ色の灯がともった山小屋の写真と、その灯をそのまま映したようなカバー色。
本を開いてすぐに、米山正夫氏作詞・作曲の歌謡曲「山小舎の灯」の歌詞が載っている。まったく知らなかった歌だけど、なんとも味わい深い。

本書は、雑誌や書籍の編集を手掛ける小林百合子さんと、山や自然の写真を中心に発表する野川かさねさんが、2人で山小屋を訪ね歩いた記録です。澄んだ空気を思わせる写真とともに、16のエッセイが並びます。

最初のエッセイは「一年ぶりの山 十文字小屋・奥秩父」。
なぜ「一年ぶり」なのだろう?

奥秩父の森と、十文字小屋

きっかけは本当にどうしようもないことだった。近しい山仲間が結婚したり子どもを持ったり、まっとうな人生を歩み始めたことに焦りのような嫉妬のような感情を抱いていた。一緒に山に行けばどうしてもそんな話題に晒されるし、馴染みの山小屋に泊まれば、「後に続かなくちゃね」と、実家かよ的なことを言われる。悪意のない言葉だからこそ、それに過剰反応する自分がいっそう惨めに思えた。

『山小屋の灯』

なるほど、それで一年ぶりなんだ。そして、わかる…!!
どうも、ほんわかしたエッセイ集ではなさそうだ。
さらに、

「私は1歳の息子を置いて山に来ちゃいました」と自虐交じりに言っていた野川さん。「子どもはそのうち大人になるから、そしたらまた好きなだけ山に行けるわよ、急がなくても大丈夫よ」というお母さん(※)の言葉に、ウンウンと何度も頷いていた。
※編集部注 十文字小屋の主人である宗村みち子さん

『山小屋の灯』

自分のことでもないのに、なんだか泣きそうになる。
夜は、女3人の晩酌で更けていく。

そして朝。

朝食を食べて、台所で洗い物をしているお母さんのところへ運ぶ。思えば小屋に来てから、赤いエプロンをかけたお母さんの後ろ姿ばかり見ている。湯気とおいしそうな匂いに満ちた台所。「おかあさーん」と呼ぶと、「なあに?」と覗く顔。この小屋にいる限り、私も野川さんも平等に、ただの子どもだった。家庭を持っていてもいなくても、母親になってもならなくても、まだ30年と少ししか生きていない、頼りなく、未完成な存在。

『山小屋の灯』
赤いエプロン姿のお母さん

誰かに受け止めてもらえたということよりも、「頼りなく、未完成な自分」を自ら受け入れられたことへの安堵感。
最初のエッセイから、グッと心をつかまれます。

実際に山に行かずとも、山小屋や人の魅力があふれるエッセイ集です。

マナスル山荘本館。大きなカツがのったカレー!

単行本のほか、ヤマケイ文庫にも収録されています。

そして最近、もう1冊、山小屋本を読みました。

イタリアの作家、パオロ・コニェッティの『フォンターネ 山小屋の生活』(新潮クレスト・ブックス)です。何もかも枯渇して「書けなくなった」作家が、アルプス山脈の山小屋に籠もった日々を綴ります。

出版社の紹介文には、「自然と生きる、21世紀版『森の生活』」「作家が孤独と出会いの中で書くべき本当の物語を見つける」とあります。

作者の内省を描いた一冊に違いないのですが、個人的には、「畑を作ろうとしたけど標高が高すぎて挫折」「自分よりもはるかにアナーキーな牛飼いとの出会い」「ガレ場で足場を踏み外して尻をしたたかに打ち、むせび泣く(さらに上空の鷲に獲物として狙いを定められる)」など、彼の不器用なエピソードが秀逸で楽しめました。

山小屋本とは、かくも魅力的なのです。

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