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額にしるし:聖書をめぐる旅 6/15

6/15(水)
 神様は自分と心を同じにし、エルサレムの罪を悲しんでいる者の額にしるしをつけられました。しるしによって救われた人たちが聖書の中にはいます。ハレルヤ!感謝します。

エゼキエル書9章

3その時、イスラエルの神の栄光がケルビム(神の契約の箱を守る天使)から立ち上り、神殿の入口の上にとどまりました。主は筆入れを持った男を呼び寄せ、 4「エルサレム中を巡り、この町で行われているあらゆる罪のために、泣き悲しんでいる者の額にしるしをつけなさい」と命じました。 5また、主がほかの男たちにこう言うのが聞こえました。「彼について行って、町中を巡り、額にしるしがついていない者を打て。惜しんだり、あわれんだりしてはならない。 6老若男女を問わず、小さい子どもも、残らず打つのだ。しかし、あのしるしのついている者には触れてはならない。まず、この神殿から始めよ。」そこで彼らは、七十人の長老たちから始めました。
9しかし、主は私に言いました。「イスラエルとユダの罪は非常に大きく、民全体に虐殺と不正行為が満ちている。彼らは、『主は見ていない。主は去って行った』と言っている。 10だから、わたしは彼らを惜しまず、あわれみもしない。彼らがしたことに対して、十分な報いを行う。」

 神様が筆入れを持つ男に、悲しんでいる者の額にしるしをつけるように命じます。ここで思い出したのは、創世記のカインのしるしです。
カインは、アダムとエバの息子で、弟のアベルを殺して、その土地を追放されます。追放された先でも、罪人として他者に命を狙われることを恐れ、悔い改めます。そのとき、神さまがカインを殺す者は7倍の復讐を受けるといって、カインにしるしをつけたといいます。それが、どんなしるしか、わかりません。ただ、私は何となく額に印をつけたのではないかとイメージしていました。
 今日のエゼキエル書の筆入れを持つ男が、しるしをつけたのは、エルサレムの罪を泣き悲しんでいる者です。このシーンを見ると、悲しむ者は幸いである、というイエス様の山上の説教の御言葉を思い出します。この世の状況を見て、悲しむのが神様の御心と近かったのだと思います。ここでは、筆で額に印が書かれています。そうそう、しるしがある民が救われるシーンは、出エジプトで家の門柱に血を塗られた家の子どもだけが救われた過越しと同じですね。


エゼキエル書10章

2主は亜麻布の衣を着た者に命じました。「ケルビムの下で回っている輪の間に入り、真っ赤に燃える炭火を両手いっぱいに持ち、エルサレムの町の上にまき散らせ。」
私の見ている前で、彼はそのとおりにしました。
6主が亜麻布の衣を着た男に、「ケルビムの間に入り、輪の間から燃える炭火を取りなさい」と命じると、その人は入って行って、一つの輪のそばに立ちました。 7-8ケルビムの一つが翼の下から手を伸ばして、燃えさかる火の中から炭火を取り出し、亜麻布の衣を着た男の両手に盛りました。彼はそれを受け取ると出て行きました。

 神様はケルビムの下で回っている車輪の間にある、真っ赤な炭火をエルサレムの町にまき散らすように言っています。
エゼキエル書は、やはり新約聖書を予表する言葉がちりばめられているようです。ここの炭火も、復活したイエス様の前に進み出たペトロのシーンと重なります。この炭火こそ、ペトロが「イエスキリストを知らない」と3度拒否したときに、目の前でたかれていたものであり、この裏切りの象徴でもあります。しかし、イエス様は、炭火の前で「あなたは、私を愛するか?」と3度確認し、新しい象徴にとらえなおしてくださいました。
 エゼキエル書では、炭火はエルサレムにまき散らされています。
これは、ある意味終末の神の裁きを予表しているようなシーンです。
神様の怒りがこの地に注がれる時です。

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