言語とイメージ(映像)

 眠い。どうしてだろう。いつも通り家から駅前あたりを散歩しただけでずいぶんと疲れた。全身に疲労が来ている感じ。知らない間に衰えているのかな。駅前近くの並木道が好きなのでよく足を運ぶ。というか毎日行っている。並木道の脇にあるベンチに寝転がって正午の風に当たるのは気持ちいい。目を開けると、視界は木々に備わった多くの葉で満たされている。葉を彩る緑の隙間から青い空が点々と見える。緑と青のコントラストを目に焼き付けながら、涼しいような生ぬるいような風を感じる。風に揺れる葉の音もいい。ここでずっと昼中寝ていようかなと思ったりもした。完全に怪しい中年なのだけどもうあまり気にしない。最近、日差しが強くなってきたからか、身体にきついのかもしれない。弱ってしまったな。昔は結構丈夫だったはずなのに、この体たらくだ。家に帰ってくると首筋に熱がこもっていて若干の疲労を感じる。

 昨日は詩の話をした。そのついでに思考と言語の関わりについて少し書いたりしたのだが、このあたりのことはあまり自分の中で考えがまとまっていないからよくわからない。わからないなりに、思うことを書いてみる。

 人間は思考するときに言語を使用する。言語なしで思考することもできるだろうが、それは実に貧弱な思考となる。いや、それを思考と言っていいのかはわからない。思考と言語は両輪といって良い。思考には言語を必要とする。そして、言語を用いて思考し始めると、たいていの場合暴走する。まとまりがなくて、収拾がつかなくなり、形にならないものが出来上がることが多くある。思考の型を作るのが言語なのだが、その言語がまた新たな型を作り出すという面倒なことが往々にして生じる。言語というのは厄介だ。言語による思考が軌道に乗ると、自分でも思いもよらないところに連れていかれる場合がある。自分で選んだ言語で思考しているのに、自分の力で思考していないのではないか。そのような錯覚に陥るときがある。言語というものが、他人との意思疎通のために生まれたものだ(多分)。言語自体に実体はない。五感で受容できない精神の世界にある。

 思考の中核を占めるのは言語である。言語なしでは思考できない。だが、思考は言語だけでは成り立たない。思考にとって言語と同じくらい重要になるのが、イメージなのだと自分は思う。イメージ、日本語に直すと映像になる。言語的思考と映像的思考の両輪から思考は成っているのかもしれない。私たちは普段あまりにも言語に頼り、言語に偏った思考をしているので、映像的思考を侮っているところがあるのではないか。本を読みすぎると、世界は言語で出来ていると勘違いするようになる。フーコーだったと思うが、言語表現をどれだけやり尽くしても、言語表現は剰余部分を残しているものであり、その剰余部分こそ思考の本質であるみたいなことを書いていた気がする。別に私は映像的思考こそが思考の本質というつもりはないが、あまり言語による思考に慣れすぎると映像の力を忘れてしまうことも考えられる。

 私たちはもはやすでに映像に支配された社会に生きている。どこを見渡してもディスプレイである。テレビがありパソコンがありスマホがある。私たちはもう映像から逃れられない社会に生きている。映像技術が誕生したのはそれほど昔ではなく、十九世紀末であり、映像の時代はまだ百二十年ほどしか経っていない。この間に、人間の思考と精神はとてつもないレベルで混雑と錯綜に見舞われたのだろう。十九世紀までは、文学にも哲学にも力があった。力量のある作家たちは、言語のみを頼りにして壮大な物語を描き出した。哲学者たちは、言語のみを頼りにして、言語を橋渡しにして、私たちが住んでいる世界からかけ離れた彼岸にまで到達しようとした。このように、言語的思考のみによってなんとか認識を刷新して、辺境にまでたどり着こうと躍起になっていた時代があった。だが、二十世紀がやってくる。初めは映画で、次はテレビだった。私が生まれたころはすでにテレビはあって当たり前のものであり、さらにはテレビゲームが現れた。先人が築き上げてきた言語的思考による蓄積は瓦解していった。そして今はスマホの時代であり、多くの人がオンラインゲームに熱中している。また、SNSの誕生により人々はますます映像にのめりこんでいる。

 とはいえ、ここでよくわからなくなる。私たちの世代は、上の世代よりも本は読んでいないだろうが、文章を書くことに関してはSNSを通じて割に慣れていたりする。年配の知識人が書いた文章が、どうしようもない悪文だったりすることもある。読書家のこもった悪文は結構きついものだ。スマホ世代は、日々映像を通して多くの文字に振れているので、映像的思考に偏っているというわけでもなく、もしかすると上の世代よりも言語に触れているのではないかと考えたくもなる。

 文学が隆盛を極めたのは十九世紀までと言ったが、それは西洋の話で明治以降に近代化した日本では少し事情が異なってくる。日本では文学の繁栄はおそらく二十世紀半ばくらいまで続いた。多分三島由紀夫が最後の人だったのではないか。日本の近代文学は戦前生まれの人が担ってきたものであり、戦後生まれの人が書いているものは何か別物だと思う。三島以前と春樹以後で何か大きな断絶がある。七十年代に何があったのか。

 言語的思考による蓄積が、一度映像的思考によって破壊されたと私は考えているが、これも日本では事情が異なる気がする。日本では映画、テレビ、ゲームに加えて、漫画やアニメが加わり、これらが独特の影響をもたらした。戦前生まれは言語を基調とする文学を、戦後生まれは映像を基調とするサブカルチャーを生み出した。

 まとまりがない文章になってしまった。この辺りのことに関しては自分の頭の中でうまくまとまっていないから、書いていて散らかってしまう。ずいぶんとでたらめなことを書いている気もする。ちなみに、何もサブカルチャーやゲームや漫画が文学をだめにしたなどど言いたいわけではない。文学と哲学の衰退はある程度歴史の必然だったと私は思う。だが、その衰退の岐路と原因に関してうまく説明できないことにもどかしさを感じている。

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