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カッパとあんみつの約束

 軽やかな声音で「おーい、ジミカッパ」と呼びかけられ、久地君花はティッシュを丸めるように顔をくしゃりとしかめた。
 くしゃくしゃ顔のまま声のした方を向くと、ウェーブがかった茶髪を風に揺らしながら、羽崎奈央が近づいてくる様子が目に入った。歩幅の長い足取りがすぐさま両者の距離を縮める。
 君花の傍まで来ると、奈央は愉快げな笑みを口元で波打たせながら、ピアノを弾くように君花の肩をリズミカルに指でつついた。
「羽崎さん……おかしな呼び方しないでよ」
 楽しげに細められた目元を睨みつけ、君花は肩に触れる指を邪険に振り払った。
「これもお気に召さないかぁ。ジミカの好みは難しい」
 払われた手をひらひらと揺らして、奈央はくっくと喉を鳴らした。「キミカ」ではなくはっきり「ジミカ」と発音された声を聞いて、君花はしかめ面を余計に深々としかめた。
「『ジミカ』呼びがイヤだって言うからさ。色々代案を考えてんの」
「単に名前で呼べばいいじゃない」
「クキ・ジミカって?」
「クジ・キミカ!」
 吠えるように君花が言うと、近くを通りがかった大型犬が「ぐわん」と呼応するように吠えた。リードを持った犬の飼い主が不審げな目つきで君花を眺めている。
 君花は耳が熱くなるのを感じながら、「とにかくあだ名はやめて」と必要以上に小さく抑えた声で言った。奈央はうねうねと唇の端を歪めながら、「んぬ」と了解したのかしていないのか判然としない返事をした。
「ま、それはそれとして。早くあんみつ行こうよ」
「……本当に奢ってくれるの?」
 君花が疑い混じりに尋ねると、奈央は「ほんとほんと」と軽すぎて宙に浮きそうな調子で返した。君花の心中で疑念と警戒の暗雲が厚さを増す。
 近場の甘味処へ行こうと奈央に誘われた時、君花は初め難色を示した。
 高校で同じクラスになって二週間、君花は奈央に苦手意識を抱きながら過ごしてきた。その主要な原因は、奈央が君花を「ジミカ」と呼ぶことだった。
 君花としても、自分が目立たない人間だとは思う。別段それを気にしているわけでもないが、だからといって他人から不躾に「地味」と言われるのは少々癇に障る。何よりジミカと口にする時の、奈央のからかうようなニヤケ面が腹立たしかった。
 初めのうちは穏当に、段々と荒っぽく、最終的には諦観気味に、呼び方を変えてほしいと何度も伝えてきた。奈央は一応聞き入れはするが、「ジミカモメ」「ジミカモノハシ」「ジミカタクチイワシ」などと、ジミカを派生させた妙なあだ名を次々と生み出すばかりだった。
 こんちくしょうめ。どうしてこうも絡んでくるんだ。
 毎度そんなことを思うが、考えても奈央の内心は分からない。
 クラスメイトになった直後から、奈央は馴れ馴れしく無遠慮な態度だった。腑に落ちないことに、遠慮がないのは君花に対してだけで、他のクラスメイト達にも積極的に話しかけてはいたが、まだ交流が少ない故の距離感が見られた。
 まるで奈央にとって、君花は以前からの知己であるかのようだった。
 あるいは、本当に既知の関係なのだろうか。
 実際のところ、君花にも一つ心当たりがないではない。それを確認するために、休日に二人で出かけようという誘いを、迷いながらも承諾したのだった。
 決して「あんみつ奢ったげる」という言葉に誘惑されたわけではない。君花は心中で自身に言い聞かせるが、とはいえそれはそれとして、先ほどから胃袋がきゅうきゅうと甘味を求めて鳴いているのは確かではあった。

 たっぷりと黒蜜の絡んだ餡と求肥を口に運び、君花は恍惚とした声音で「ほぐああ」と呻いた。モチモチと柔らかな歯触りに乗って、口内に品の良い甘味がふんわりと流れ込んでくる。
 咀嚼する度にだらしなく緩んでいく表情を、君花はどうすることもできなかった。スプーンにとっては迷惑なことだが、柄を持つ指には知らず知らず、過剰なまでの力が入っていた。
 口の中が空になってからも、君花は緩んだ顔つきのままぼうっと宙を眺めていたが、すぐ傍から軽快な笑い声が聞こえて、慌てて表情を取り繕おうとした。
「ね、もっかいさっきの変顔やってよ。写真撮るから」
 スマートフォンを手に奈央が言った。君花は頬を熱くしながら「変顔じゃない」と視線を逸らした。
 逸らした視線の先には壁に掛けられた絵があった。向かい合う風神と雷神を描いた古い絵画のようだが、よく見ると神々の中間辺りにあんみつの入った容器が描いてある。何となく気の抜ける構図を見て、君花はふっと小さく息を漏らした。
 甘味処の店内はそれなりの客入りだった。そこかしこの席で客達はあんみつやぜんざいといった甘味を口にし、幸せそうに微笑みながらざわざわと言葉を交わしている。
 君花と奈央は隅にある席に向かい合って座っていた。君花の手前には白玉入りのあんみつが、奈央の手前にはバニラアイスの乗ったあんみつが置かれ、机の上で煌びやかな存在感を放っている。
「マジであんみつ好きなんだね。すんごい顔で食べてた」
 くっくと笑いの残滓を含む声で奈央が言った。
「……知ってたの? 私の好物」
 君花は探るような口調で尋ねた。
 へらへらと捉えどころのない微笑を浮かべながら、奈央は「んぬ」と曖昧な声を返した。君花は目を細めて奈央の表情を眺めてみたが、それで内心が読み取れるわけもなく、ただ「へらへらしてるなぁ」と思うばかりだった。
 眼前のあんみつを口いっぱいに詰め込みたい衝動に耐えながら、君花はスプーンを器の端に置いた。一度深く呼吸をした後、奈央のへらへら顔を見据えながら、ゆっくりと口を開く。
「私達、高校より前に会ったことある?」
 君花の言葉に対して、奈央は曖昧に微笑むだけだった。ただ、まぶたがぐっと持ち上がり、楽しげなおもちゃを目にした子供のような視線を君花に向けていた。
「カッパちゃん?」
 早口に言葉を継いで、君花は緑茶の入った湯呑みを素早く手に取った。発言をごまかすように、中身をぐいぐいと喉へと流し込む。ほんのりと暖かな苦味が舌の上を滑っていった。
 長い息を吐きながら湯呑みを机に置き直す。おずおずと奈央の顔へ視線を戻すと、眉間に刻まれた特大のシワが目に入り、君花はたじろいで右手の指をくねくねと所在なく動かした。
「思い出すの遅すぎ。あんなに仲良かったのにさ」
 拗ねたように頬杖をついて、奈央は揶揄と懐旧の入り混じった声で言った。

 小学生の頃、君花は一年間ほど近所の水泳教室に通っていた。
 教室には似たような年齢の生徒が何人も通っていて、「カッパちゃん」もその内の一人だった。
「最初にジミカって呼んだのはさ、言い間違いだったんだよね」
 奈央の言葉に君花は頷いた。自分の記憶を辿ってみても、初めてジミカちゃんと呼ばれた際、すぐに「キミカちゃん」と訂正された覚えがある。
 当時の君花は――今もややその傾向はあるが――感情がそのまま顔に出る質だった。イヤミを言われたと反射的に捉えて、君花はくしゃりと顔をしかめて不快感を示した。丸めたティッシュのようなしかめ面を見て、奈央はけらけらと腹を抱えて笑った。
「あの反応見て、味占めちゃったんだよねぇ。この子からかったら面白いって」
 にまにまと意地悪く笑って奈央が言った。「占めないでよ」と君花はため息を漏らす。
 それ以降、奈央は君花に積極的に話しかけてくるようになった。ジミカと呼ばれる度に君花はティッシュ顔で抗議し、それを見て奈央は大いに破顔した。
 からかいたがる悪癖を除けば、奈央は懐っこく友好的で、水泳の合間の休憩時間はほとんどいつも二人で喋って過ごした。
 君花は内心複雑だった。あだ名は気に食わないが、奈央との交流は思いのほか楽しい。反抗と友好の狭間でいつまでもぷかぷかと立ち泳ぎをしているような感覚を、当時の君花は味わっていた。
「今思うと、仲が良かったといえば良かったのかな」
 君花が腕を組んで言うと、奈央は不満げに「もっと自信持ってよ」と指先で机をつついた。
「仲良しだったじゃん。お互いあだ名で呼び合ってたし」
「だってそれは、あだ名で呼べってしつこく言うから」
 言いながら君花は、ゴーグルからしたたる水で偽の涙を演出しながら「私にもあだ名つけてよう」と泣訴する奈央の姿を思い返していた。
 下手な演技にうんざりしながら考案したのが、「カッパちゃん」というあだ名だった。
 奈央は泳ぎが上手かったが、それを褒めた呼び方ではない。奈央が使っていた水泳キャップは、頭の頂点辺りに白い円が描かれたデザインをしていて、それが河童の皿のようだとからかう意図だった。一方的にジミカと呼ばれるのが癪で、君花は反撃を目論んだのだった。
 効果は全くなかったけど、と君花は内心苦笑する。
 奈央はさほど喜びはしなかったが、嫌がりもせず「じゃあそれで」とあっさり言った。君花は自分の良からざる意図をわざわざ説明すらしたが、奈央は両手を突き出し唇を尖らせて「クエー」と奇声を発するばかりだった。後から聞いたところ、河童の真似をしたつもりらしかった。
「クエー」
 記憶の映像と同じように、奈央が両手を突き出し唇を尖らせた。君花は「げぶ」と奇声混じりの吐息を吹き出し、寒天のようにぷるぷると全身を震わせた。
「これ、前もめっちゃウケてたよね」
「ま、まったく、もう。そんなこと覚えてなくていいってば」
 君花は腹の辺りを手で押さえ、ぜえぜえと呼吸を荒げた。
 奈央はくっくと機嫌よく喉を鳴らし、黒蜜の絡んだアイスクリームをスプーンでひと掬いして口に運んだ。「甘いねぇ」と穏やかな声で呟き、日向でくつろぐ猫のように瞳を細める。
「そういえば、バニラアイスが好きって言ってたね」
「おっ。そっちもちゃんと覚えてんじゃん」
「……買わされたからね。なけなしのこづかいで」
 君花が刺々しい視線を向けると、奈央は悪びれず「あの時はありがと」とひらひら手を振った。
 水泳教室の入口付近は休憩スペースのようになっていて、そこにアイスクリームの自動販売機が置いてあった。講習が終わった後、奈央は度々スティック型のバニラアイスを買い、さっさと帰ろうとする君花の腕を引っ掴みながらソファに陣取って食べていた。
 君花はあまり自販機を利用しなかったが、一度だけアイスを二本買ったことがある。一本は自分用だが、もう一本は財布を忘れた奈央にバレバレの嘘泣きで頼み込まれて、仕方なしに奢ったものだった。小学生当時の財政状況からすると、これは中々手痛い出費だった。
「だからさ、約束守ったよ」
 不意に神妙な顔つきになって、奈央はぼそぼそと囁くように言った。
 君花は何度か意味もなく瞬きをした。しばらく口をつぐんでから、気の抜けた声で「約束?」と聞き返す。
「『次は私がジミカの好きなもの買ってあげる』って言ったらさ。『じゃあ、あんみつ』って」
 早口に言い切り、奈央は荒っぽくスプーンを動かして豆と寒天とみかんを口に押し込んだ。
 君花はぽかんと口を開けて、束の間ぼうっと眼前のあんみつを見つめた。白い器を甘やかに彩る具材達が、天井からの灯りに照らされて、きらきらと輝いて見えた。
「それは、えっと……ありがとう」
 器に並ぶ白玉を眺めながら、君花はぎこちなく感謝を述べた。口をついた言葉が、好物を奢ってくれることに対してのものか、何気ないやり取りを覚えていてくれたことに対してのものか、自分でもはっきりと分からなかった。
 何となく照れくさくて、奈央の方を真っ直ぐ見られないまま、君花はスプーンを手に取った。白玉を掬って口に入れると、いつもより心が弾むような、鮮やかで楽しげな味がした。

「次はどこ行く?」
 のれんをくぐって甘味処を出ると、当然のような口ぶりで奈央は言った。
「ちょっと、今日はあんみつ食べるだけじゃないの?」
「いいじゃん。折角なんだし遊ぼうよ」
 どうせ暇でしょ、と奈央は意地悪く笑った。君花は「決めつけないでよ」としかめ面を作ったが、実際のところ全く何の予定もなかった。
「そういえば、あの水泳教室ってまだあんの?」
「やってるよ。今は大人向けの教室も開いてて、そこそこ繁盛してるみたい」
 君花が答えると、奈央は「そっかぁ」と懐かしむような眼差しを空に向けた。
「急な引っ越しで通えなくなってさ。ま、引っ越しっても隣の市だけど」
「あぁ……だから突然来なくなったんだ」
 君花は目を軽く見開いて頷いた。
 水泳教室に君花が通い始めてから一年近く経った頃、奈央は講習に姿を見せなくなった。退会したという話は指導員から聞けたが、それ以上の詳細は分からなかった。
 奈央がいなかったところで、水泳に支障があるわけではない。君花は気にせずしばらく通っていたが、段々と講習の全てをひどく退屈に感じるようになり、一年を越した辺りで辞めてしまった。
 寂しかったんだ、と今なら素直に思える。
 気に食わないことも多々あったが、それも含めて「カッパちゃん」との交流は楽しかった。
「ジミカ、私がいなくなって泣いた? 泣いたでしょ?」
 君花の二の腕を指でつつきながら、にやにやと奈央は言った。しんみりと過去を想う気分があっという間に壊れ、君花はハアアと力の抜けた息を吐いた。
「泣いてない。あと、ジミカって呼ばないで」
「そっちもカッパって呼べばいいじゃん。そしたらおあいこ」
「奈央って呼ばせてよ、単純に」
 君花がうんざりした調子で言うと、奈央は目を丸くして「『羽崎さん』じゃなくなってる」と弾んだ声を上げた。
 大仰に咳ばらいをして、「行き先だけど」と君花はやや強引に話題を転じた。
「水泳教室、見に行ってみない? 泳ぐのは無理だけど、高林さんに頼めば見学させてもらえるから」
「マキちゃんまだ働いてんの? 『辞めてぇ~』って口癖みたいにぼやいてたのに」
「たまに会うけど、今でも『辞めてぇ~』って言ってるよ」
 君花が知り合いの事務員の口調を真似ると、奈央は「それそれ」と腹を押さえながら大きく笑った。
「あぁ、久々に生『辞めてぇ~』聞きたくなってきた」
 奈央は君花の手首を無造作に掴んで、ぐいぐいと引っぱった。
 それから僅かに小さく抑えた声で、「行こ、君花」と言葉を継いだ。
「うん、奈央」
 同じくらいの声量で返しながら、君花はレンガで舗装された歩道の向こうを見据えた。まぶしく注ぐ陽光のせいか、進路の先が柔らかな光を放っているように思えて、君花はそっと目を細めた。
 かつて途切れたはずの道が、もう一度未来へ向かって伸びている。進む先に何があるかは分からないが、きっとそんなに悪いものではないと、手首に触れる温度が教えてくれている気がした。
「やっぱジミカって呼ぶ方がしっくりくるなぁ」
 ぶつぶつと奈央が呟くのを聞きながら、とはいえ紆余曲折ありそうな道だけど、と君花は苦笑した。

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