違いを寂しさと訳さずに

1ヶ月ぶりにスタバに来たから、この記事のアンサーソングみたいなものを書いてみた。

異動して1週間、この年になると能力的にできない仕事はないけれど、物理的に足りない時間とそれに見合わない量の仕事、新しい環境のシステムに慣れない効率の悪さが相まって忙殺されている。

今はちょっとだけ苦しい。仕事の多さから来る余裕の無さに加えて、本当はたくさん取りたいコミュニケーションもちょっとめんどくさくなってしまって、それを怠るからちょっと距離ができてしまうんじゃないかと不安になって、それがまた不安になっている。確実に溜まるストレスは目の痙攣や頭痛として現れている。自分の身体は凄く正直になってきたんだと感じる、これが老いなのか。

新しい場所で自分のことを知らない人達と過ごす時間は、わかってくれていたから割かないで済んだ、使わずに済んだ感情を再び思い出して使うストレスでもある。距離感の探り合い、無意識な合う合わないのタイプの見極め…関係性があったから通じた冗談もただの悪口になってしまわないか凄く気になるのだ。嫌われないように愛想尽かされないように丁寧に息殺して生きている感じがきっと知らない内に疲れとして残っているんだろう。サウナと10時間の睡眠がまったく効かない。久しぶりにちょっと余裕のない自分がいる。

そんなこれまでの環境と新しい環境との違いすべてを単純に寂しいという感情に結びつけてしまうと、なんだか夜一人の教室で泣きそうになってしまう。楽しかったあの頃、自分をわかってもらえて自由にアイデアを出していたあの頃に持っていた自信みたいなものが、どれだけまがいだったかわかって小さくなったような感じがして泣き出しそうになってしまうのだ。

それでもこうして今の思いを書き出すことは、いつも変わらず自分を冷静にさせてくれる。これまでとの違いを寂しさとしか訳せない内は、自分のキャパシティの中にきっと受け入れるだけの場所は空かないし、きっと安易なその翻訳はまだまだ余裕が無いことを教えてくれている。

それでも新しい環境で、職員室でも教室でも自分のことが少しずつ受け入れられて、いじったりいじられたり、そこに関係性や信頼が築かれていく音がする。新しい出逢い、こんなにも幸せなものはない。

新しい環境に異動して1週間、今はちょっと苦しい。色んなストレスが掛かっている。それでも新しく出逢った先生方や子ども達がとても素敵で安心した1週間、一番の感情は間違いなく楽しいであるのは変わらない。楽しくて堪らないのだ。少し自分の上に降る雨が強くなってきて、せっかくお洒落にセットした髪が崩れそうなのが気になるから早く傘を買おうぐらいの耐えられるストレス、まだ余裕だよ。

ここのところの自分は桜が綺麗に咲いているのに気づく余裕もないぐらいだった。ちょっと今日は早く寝て明日はその鮮やかなピンクに足を止められると良い。その時の感情はその時のまま残しておけると良いと思って衝動的に筆を走らせてみた。初任の頃と似た感情を8年目も持っていられて少し幸せである。

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