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僕は僕のコピーを作りたいのか?

冬休みもそろそろ終盤に差し掛かった頃、休みが終わるブルーに負けてしまいそうな気持ちを鎮めようと映画に手を出した。母親に薦められた『MOTHER マザー』は長澤まさみの演技が素晴らしければ素晴らしいほどに辛く、生まれて初めて見なければ良かったと思った作品になった。母と子の関係はあまりに強く、その執着は僕らの常軌を逸する。母親は何があっても「母親」で、その切れない親子の関係を淋しく描いた作品だから、見終わった後の落ち込みがひどく立ち直るために1日寝込んだ。僕にはあれをもう一度見る心の強さとあらゆる親子の形を受け入れるだけの心の広さはない。是非にとは言わないけれど、一度あの痛みは知っておくと良い。僕らの世界にはきっとフィクションではない現実があるはずだから。

最後の1日はなんとか元気になって新学期を迎えたいと、あらゆるレビューと話題性から堅く『浅草キッド』を選んだ。ビートたけしがまだビートたけしになる前の話、師匠深見千三郎とタケの師弟の話である。本人が憑依したかのような柳楽優弥の演技の上手さはさることながら、その師弟愛が美しく、明日からまた頑張る勇気を貰うためには十分だった。今は珍しい師匠と弟子の関係性にどこか羨ましさを感じた僕にはこれまで師匠と呼べる人がいただろうか?舞台の袖からその芸を学び必死になって習得したい憧れはいただろうか?もし今、自分の道においてそういう方がいる人はとてもとても羨ましく思う。僕はこれから心を燃やせる道と、今の自分がちょっと頑張ったぐらいじゃ手の届かない師匠に出逢うことができるだろうか?新年の希望をそんなところに乗せまた今年が始まる。

受験生の担任である僕は今、子ども達の面接指導をしている。就活生ほどの幅のある経験を持たない彼らの語る''自分''は、どうしても学校の中の''自分''が多くを占める。するとエピソードが寄るのだ。それは仕方のないことだけれど、面接シートの名前を伏せたなら誰の志望動機か、誰のエピソードなのかわからないことがある。就活生ほど面接のミスがクリティカルに人生に響くことはないにしろ、あまりに君がわからないよと伝えることがある。

15歳、安全な道を歩くことは選択の自由の少ない道を歩くことだ。自由に授業を選べるわけでもなく、決められた時間の中で生活をする。学校には校則があるのだからそれに従う必要もある。

学校の枠の中で生きる、それが世間に言わせれば''個性を潰す''ことになる。''学校は子どものことを考えちゃいない''なんて言われることもある。''髪型や靴下の長さ、靴の色を今すぐ自由にしろ、さもなければみんな同じになっちまうぞ''と僕らを叩いてみる。

本当にそうだろうか?

僕に言わせてみれば''そんなんで潰れてしまうほど個性って弱いものじゃない''のだ。

もちろん髪型やファッションは個性の一部だ。総じて''センス''と呼ばれる個性を示す1つの材料になることは間違いない。だだその材料を奪ったところで潰れてしまうほど、彼らは単色ではないし、彼ら自身も奪われてたまるかと思っている。校則守ったところで自分は自分であって、似たような形に整えられて見る影も無い♪と流行り歌を口ずさむあの子も生きたいように生きている。

では真に''個性が奪われる''のはいつか?

それは明白、僕らが彼らにオリジナルであることを求めなくなった時だ。その時に個性は潰れるのだ。

先の見えない未来にあって、子どもを危険に晒すわけにはいけないと、とことん大人がリスクを回避してみせるようになった。自分が通ってきた道が歩きやすかったから同じ様に歩きなさい、そちらは危険だよと。

「君はどう思う?」と問えない大人が増えてきた。表面上の''個性を潰す''ことを恐れるくせして、子どもの中身は自分の色に染めようとする。自分の大切にしている価値観の中で子どもを育てようとするから、合わないものは排除する。

するとどうだろうか、出来上がるのは大人のコピーのような子どもだ。

「僕はこう思う」「私はこうしたい」は次第に「どうすればいい?」になってしまう。大人の顔色を伺いながら自分を生きる、いゃ自分なんか生きていないのかもしれない。それでも子どもが考えなくなったのは''髪型や服装を縛るからだ''と言う。校則に個性を抑圧するだけの力が無かったと気づくのは彼らが大人になって髪型や服装を自由に選べるようになってもなお「どうすればいい?」と聞いてきた時だろう。

今週は道徳で「国際貢献をしようと思った時に大切なことは何か?」というテーマで話をした。

「発展途上国ってまだまだあるわけじゃない、そういう国に貢献したいと思った時に大切なことって何だと思う?」

「自分の国、日本のようにその国を発展させようと思うんじゃなくて今より少しでもその国が良くなるようにできることを探すのが大事なんじゃないかなぁって思います。日本ではできないこともあると思うし」

「第二の日本を作ろうじゃなくてね、その国のアイデンティティーを大事にしたいよね」

「どう?」

「貧しい国や村は○○が必要だと、日本人の私達が決めないことですかね。支援してあげるという上から目線なスタンスだとどうしても私達目線で良いものだけが残っていくというか」

「本当に必要なものって違うのにね。日本人の価値観で良いなと思うものを送っちゃったりする。あっちからしたら『わかってねぇな、ガンダムなんかいらねーよ』なんて思うことあるよね」

僕らは僕らの価値観の中で良かれと思ったことを無意識に強いてはいないだろうか?

先日、成人式後の同窓会に参加した。僕にとって初めての卒業生で、今以上に僕を友達か何かと勘違いしていた子ども達が晴れて成人を迎えたのである。

5年も会っていないと、もう忘れてしまっているだろうと卒アルをスマホにしたためていた僕だけど、まったくその必要はなかった。背丈や髪色、メイクは変われどしっかりあの頃のまま、大切な子ども達だった。

お酒が飲めるようになった。大人な話をするようになった。ちょっと偉そうになった。それでも変わらず温かさのある素敵が見えるのだ。

これからの時代、きっと個人の価値がこれまで以上にフォーカスされる。その中には受け取ってもらえる価値があるか?みんな成人おめでとう、これからもオリジナルであってくれ。


深見を師としたタケは「まるで生き写し」と言われるぐらいに師を真似た。それでもある日、深見の認めなかった漫才で勝負したいとフランス座を去った。

後にビートたけしとなり漫才で売れたタケは深見を超えた。それでも破門を言い渡した弟子の活躍を温かく見守り、「タケの野郎がよ、生意気によ、小遣いだなんて言ってよ」と嬉しそうに話す大泉洋演じる深見からは、弟子が自分を超えた時の本当の喜びみたいなものを感じることができた。

深見は自分のコピーを作りたいなんて微塵も思わなかっただろう。

タケ自身も売れたところで深見を超えたなんて思わなかっただろう。

良い師弟の在り方を見た映画だったなと思う。

面接カードの尊敬する人の欄に僕の名前を書いてくれた子どもがいる。僕のようになりたいと。それも何人も。そう在ることを望んで生きてきたつもりだし、それは大変光栄嬉しいけれど僕は別に僕のコピーを作りたいとは思わない。それに僕の名前は憧れとして目指すには少々小さい。大谷翔平ぐらいが無難だと思うぜ。

「で、何ができんだよ?」
初めてタケに会った時、深見はそう言った。そう聞かれた時、僕はなんと答えられるだろうか?誰かのコピーになってはいないだろうか?









「それでは面接を始めます。あなたの価値はどんなところにありますか?」

超えてくれ、その頃にはきっと受け入れるだけの強さも持っているだろうから。

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