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僕はあきらめることにした。

プロローグ

芸人のニューヨークが好きだ。ニューヨークのコントの中に警察官が、ハマー(HUMMER)に乗る20歳の青年に職務質問をするというネタがある。六本木のタワーマンションに住み、ハイブランドで身を固める青年に対して、警察官役の屋敷が「お前オレオレ詐欺やってんだろ!」と決め込み、一喝するところから始まるネタである。それに対して青年役の嶋佐は「音楽プロデューサーだよ」と答えるのだ。警察官とヤンキーという立場の優位を勘違いから逆転し、自分を卑下していきネガティブをネタにする、いかにもニューヨークらしいネタだ。

「なんで国守ってる35歳がチャリ乗ってて、楽しく過ごしてるハタチがハマー乗ってんだよ」というニュアンスのセリフは、まじめに働くことが良しとされた時代から''楽しく働く''という新しい価値観への転換、働き方の多様性を見せている。

そして青年が音楽プロデューサーであることを知った警察官が「お前一部の選ばれた凄ぇやつだったのかよ、ちくしょう」と返すのがこのネタの最大瞬間風速、パンチラインである。

キングオブコントの決勝進出が発表されたニューヨーク、彼らのネタはまた新しい世界を見せてくれるはずだ。

話変わって先日僕は無事に29歳の誕生日を迎えた。今のところM-1を取ったら仕事が100倍に、みたいな人生好転の転機のニオイはせず、20代ラストイヤーを粛々と始めている。

年々視力が落ちる。大量に買い込んだ1Dayのコンタクトがまだ残っているけれど、見えづらさには拍車がかかる。ただそれとは裏腹に自分の人生の視界はクリアになっていくのがわかる。メンタルが落ちる原因とか、テンションの理由とかそんなものがある程度説明がつく。そうしてできることがわかり、できないことが見えてくるとそれは総じて''生きやすさ''みたいなものになる。自分の価値を最大限に受け取ってもらえる対象は誰か、自分が死んでしまう環境はどこか、そもそも自分じゃなくても大丈夫なことは何か?そんな具合だ。偶然3年目の日記を手に取る。表紙の裏に太字で記された今年のテーマは『誰かがやらなきゃいけない仕事は俺がやる』…やめておけ、死ぬぞ?社会に出て3年ぐらい経つと、ちょっとだけ出てきた自信を元手になんでもやりたい、そんな流行り病が誰にでもあるのかもしれない。

誰かの眼鏡を借りなければ自分がわからない年ではなくなってきたのは年の功というやつか。自分がわかると自分のこれからのなんとなくを覗くことができる。オレオレ詐欺をする人ではなさそうだし、無論一部の選ばれた凄ぇやつにもなれる人ではなさそうだ。

SNSが近づけてしまった凄い人達との距離は、確実に現代人の不幸だ。何かを勘違いするには十分な距離でいられるのに、近づきすぎたがために感じる本当の距離の遠さは間違いなく子ども達が夢を持てなくなった原因でもある。

「東京には凄ぇやつがいる」自分が心奪われて、ようやく''自分の夢''と決めたものにはもう同じぐらいの年で日本中に認知されてるやつがいる時代だ。あきらめの年齢がだいぶ人生の初期に訪れる時代になってしまったなと感じる。中学生はみーんな「夢はないです」か「公務員です」だ。別に悪くない。まったく予想のできない未来にあって、只今こんなにも公務員の威力を感じることもないだろう。でも「公務員です」の前には決まって「とりあえず…」という枕詞がついてくるのは少々の淋しさがある。やりたいことはないし、どうせ夢なんて叶わないんだから、面談をスムーズに進めるための「とりあえず」、だ。

今の時代は全部知れるから、良い。今の時代は全部知れるから、良くない。知らない方が幸せだってこともあるじゃないか。「俺は凄いやつかもしれない」と勘違いの中で生きることのできた時代は今ほど豊かでなくても、子ども達がまがいなりにも自信を持って生きることができた幸せな時代なのかもしれない。メディアとの付き合い方を示していくのは僕ら大人の仕事でもある。ちくしょう、また仕事が増えた。

「あきらめる」ということ

「凄ぇやつになれない自分」を解決する方法は2つある。1つは、死ぬ気で努力してそこを目指すこと。もう1つは、足るを知る、今に満足できることだ。自分の在り方や目指すところが定まらず、そのどちらにもなれずにフワフワと地に足の着かない状態は最もメンタルを蝕む。

いつかJリーグでコーチがしたいと思っていた26歳の頃に、剣道部の顧問になり指導や勉強に時間を取られてまったくサッカーに触れる余裕がなくなった時に僕を襲ったあの感覚、''まったく前に進んでいない感覚''は正に心のガンだった。

「充実とは?」

その言葉が本来持つ意味に加えて、辞書に3つ目、4つ目を書き加えるなら、そこにはなんと書こうか?といったことを僕の道徳の授業ではよくやる。僕ならきっと、「前に進んでいる感覚を感じることができること」となるだろう。

さて、もう少し掘っていこう。「前に進む」の''前''が向く先にあるのは何か?それが''目的''だ。自分が働く目的は何か、自分が生きる目的は何か?ちょっと大きなテーマだけれど、時間がある時にちょっとここを整理してみるとグッと生きやすくなると思う。そういうことを考える時僕はたいていスタバや温泉にいる。

僕が働く目的、もっと大きく人生の目的は何か?と問うた時に出てきた答えは

「子ども達を笑顔にしたい」だった。

…いゃ、これはちょっと他所行きにカッコつけ過ぎたから本当のことを言うと

「子ども達が笑っているのを見て自分が笑いたい」

が本当のところか。

笑わせることができればなんだっていいだろう。プロ選手はわかりやすくプレーでそれを作ることができるだろう。漫才師になって笑わせることもでもいいし、BTSに入ってDynamiteを踊ることもでもいい。漫画を描いてもいいし、ゲームやアニメを作ることでもそれは達成できそうだ。

ごらん目的を達成する手段はいくらでもある。ただそうあることを願っても僕にはそんな才能がない。年を取れば取るほど獲得の可能性は細くなる。だから目的を達成するための手段を考える時に自分の得意、不得意の見定めは必須なのだ。ここが僕の言う''人生の視力''で、中学生のうちは自分には何が有るのかがわかりづらいからこそ、生き方がわからない。勝負できる場所がわからない。

そんなことを考えて僕は26歳の頃描いていた「Jリーグでコーチをする」という夢をあきらめたのだ。

そこで働くための分析の力も、サッカーへの深い見識も、何より毎週逼迫した状態で戦うメンタリティも備えていない。それにJリーグで働きたいと思った理由の本当のところはオフィシャルサイトに自分の顔写真と名前が載ることが何より自分のステータスを誇示できることだと思ったからだ。

つまり自分がそこで働くことで、自分の目的を達成できるか怪しいのであれば''あきらめる''は賢明な判断なのだ。

''Jリーグで働くことが夢''が心の中にチラついた状態で、学校の先生をしていることは僕にとっても子どもにとっても良いことではなかった。いつかここを出ていくと決め込んで働くのと、ここが自分の居場所だと信じて働くのとでは自分が思っている以上に出力が変わる。

僕は学校の先生でいることで目的を達成できる気がしているのだ。授業を頑張ることでできることを増やして笑顔にできるし、サッカーの指導をしてなりたい姿に近づくサポートができる。帰りの会で子ども達に語ることで生きやすさのヒントをあげることもできるし、「先生って精神年齢中2ですよね」と言われるような距離感で悩みをふっと軽くすることもできる。もう、自分の生きる場所はここだろう。

''あきらめる''という言葉が使われる時、その多くがネガティブな文脈の中で用いられる。''志半ばで逃げ出す''といったニュアンスで意義づけられことが多い世の中ではどうしても一度決めた道を捨てて他の道を選ぶことは難しい。

ただ、自分の向かう先に目的としたことがきちんとあるかどうかを見定めることはめちゃくちゃに大切なのだ。「憧れの存在が本当に自分の延長線上にいるのかしっかり見極める必要がある」為末大さんがそんなことを言っていた記憶がある。憧れの人を目指して努力することが自分の良さを消すリスクも孕んでいると。こんなに長く書かなくてもこの一文の引用ですべて伝わるじゃないか。

ハマーに乗るキラキラした音楽プロデューサーに憧れてそこを目指す時に、自分の目的地はここかをもう一度覗いてみると良い。「一部の選ばれた凄ぇやつ」にそもそも自分はなる必要があるのか考えてみると、ふっと気持ちが晴れることもあるだろう。そんなところに好天の天気のニオイはするはずだ。

エピローグ

しばらくサッカーのない生活が続いている。とても味気ない。僕の生活の多くがサッカーで塗られていたことが離れてみるとよくわかる。子ども達とボールを蹴って笑っている日々の尊さは失ってみてよくわかる。ただ忙しくしていたら見えなかった景色も、こうして立ち止まってみるとありありと見えるようになるからたまには頑張らないことも大事なのかもしれない。

最近は早くに仕事を終えて、軽く汗を流した後にゆっくりと湯船に浸かる。体温より少し高いお湯に1時間程浸かり、ぼーっと文字を打ち込んでいる。今だってお風呂から更新している。人間は体温の高まりと共に気分が大きくなるんだろうか、ちょっと大きなテーマにも恥ずかしげなく自分の想いを綴ることができる。だからお風呂は良い。日常が戻ってくるまでのあと少し、もう少しこのぬるま湯に浸かってボーッと人生を覗いていたい。











入浴が好きだ、なんて。

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