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期待をしない生き方は

僕は試験の結果だとか、異動の希望だとか、事あるごとに10円を握りしめては大社やお墓に行って手を合わせる。事の大きさによっては100円を握りしめて「これだけ用意したんだからわかってますよね?」と言わんばかりのでかい顔をして手を合わせる。余談だが、お賽銭の額と成就率の関係を調べた研究では、お賽銭の額に関係なく勉強したやつは受かるという意外な結果が出ている。そういうのはもっと早く知りたかった。

人生の岐路に立たされた時、僕を含めて多くの人が希望をする。やれこの大学に入りたい、やれこの企業に就職したいと希望をする。大抵の希望は、通らずに肩を落とす未来になってしまうことは齢(よわい)を重ねれば、誰しもが知ることであり、その免疫があるからか大人であればあるほど立ち直る。そこには「希望は叶わないもの」というあきらめ故の立ち直りも含めて。

子どもは希望をする。自分の持つ力と、求められる力の差への視力も悪く、「現実を見ろ」と諭されてもなお希望をする。その後に待ってる未来のことまで思いを馳せることは15歳の子ども達にはまだ難しい。大抵の希望は、通らない。

それでも希望はした方が良い。「どちらでも良い」「どこでも良い」とネガティブに自分の進む道を他者に委ねる生き方はとても味気なくないか、中学生。自分の人生を自分の意志で進む人はどんな道に進んだってかっこいいことを、僕ら大人は知っている。人の人生を生きるなよ、中学生。『選べることが大事なんだ人に任せるな』って歌詞を「深い」って言って目を輝かせたじゃないか、中学生。

「傷つきたくないから希望はしない」

「希望しても傷つきたくないから期待はしない」

期待のない希望は本当に希望か?あまりに乾燥しすぎちゃいないか?

期待をしない生き方は

僕もこんなことを書いている身で、極力色んなことを期待しないで生きていたい質(たち)だ。異動の希望は通らずに今の場所に赴任して、校内人事の希望だってほとんど通ったことがない。ことごとく自分の希望は叶うことなく、予想したのとは違うところを歩く人生だ。その度に落ち込み、傷付くわけだけど、その痛みの予防のために打つ注射が「期待をしない」だったりするわけだ。あれはそこそこ効く。

傷付かずに済む一番の方法は、「期待をしないこと」これはもう間違いない。「叶っても叶わなくても別にどっちでもいいよ」というスタンスを取ることで、「あぁやっぱりね」と予め叶わなかった時のハードルを下げておける。急激に上げた体温が下がりやすいように、期待し過ぎたものは落ち込みもひどい。たくさんの本で推奨される生き方だ。

でも、できることならワクワクして生きていたいとも思っている。ワクワクしているという状態にある時、高揚感を持つ時、人はもれなく幸せでいられる気がするのだ。

裏切られたらショックが大きいから期待しない…じゃちょっと人生味気なくてね。「あぁこれは上手くいきそうだ。…あぁでも期待し過ぎるとたいてい上手くいかないからそう思うのはやめよう」という生き方はちょっと乾きすぎている。

じゃあどう生きようか?という話をしよう。

希望の多くは、「こうなりたい」という理想を叶えるために、この道を選んだ方が良いと現時点で考えられる最善の道のことを指しそうだ。道を選ぶのは中々に頭を悩ませる作業が故に、これが最善だと決め込んだら、それが正しいと信じるには十分な理由になる。そのため、希望が叶わないという常を経験した時、人は最善を失われた気になる。

とかく僕らは描いていた未来と違う方向に進むとそれが最悪だと決めつけるけれど、蓋を開けてみたら…ということはたくさんある。それが最善だったかどうかはやはり少し進んだ先で後ろを向いた時の答え合わせでしかないのだから。

予めこうなりたいと希望していた未来になったとしても、自分が考えもしなかったもう一つの道に進んだとしても、そのどちらも楽しいだろうと期待して生きられる、どちらに転んでも楽しいよねって期待をかけたいのだ。そういう人が君達の望む「メンタル強い人」なんじゃないかな。

そのどちらにも旨みや面白味は含まれていて、どっちの道も楽しそうだなと期待をかける生き方は素敵だなと思う。

期待をしない生き方は、やはり味がしない。


























いよいよだね、3年生。
自分の選んだ道を自信持って進んでな。

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