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【大地に生きる15】ランドセルは

いつまでも今の生活が続けばいいのに。
そう思ってしまう。


子どもの成長を楽しみにするのが普通の父親なのかもしれない。
どうしても、俺にはそれができない。
成長すれば、今のやり方で息子を守っていられなくなる。何か、別の方法を見つけなくてはいけない。それは俺にとって大変なプレッシャーだ。


5歳の息子は幼稚園に通っている。「通っている」だけだ。
息子の大地は話すことができない。ほかの子どもたちが先生の言うとおりに行動していても、大地だけ違うことをしている。ほかの子どもたちがごっこ遊びをしていても、大地はその意味を理解していない。一人で手のひらをひらひらさせ、光の反射を見つめている。
同じクラスの子どもたちは、子どもなりに大地を受け入れてくれている。それは本当にありがたい。子どもは、正直が過ぎて残酷なところもあるが、その一方で寛容でもある。大地が集団生活から逸脱しても、子どもたちは「まあ、そういうものか」と言わんばかりの表情で待ってくれるのだそうだ。
それにはもちろん、集団を率いる先生方の姿勢が反映されている。ついていけない大地を決して排除することなく、大地なりに幼稚園で過ごすことができるよう、先生たちが力を尽くしてくれているからだ。
幼稚園には、いくら感謝しても足りない。


でも、このまま一生いられるわけではない。大地は5歳、もう少しで小学校に上がる年なのだ。
小学校。思い出すだけでため息が出る。同じ机に座って同じほうを向いて、同じ活動をしなければならない。できなかったら?できないやつは、それなりの扱いを受けたって仕方ない。そういう雰囲気が、小学生の頃にはあった気がする。
大地をあの中に放り込む。どう考えても無理だ。今の幼稚園のお友達がみんな一緒にいてくれるとは限らないし、いてくれたとしても、全くついていけない大地を守ってくれだなんて、言えない。
じゃあ、どうする?ほんの数人の子どもが別室で学んでいた、何とか学級。ああいう教室に、大地は入るのだろうか。それとも。
俺は頭を振った。昔のおぼろげな記憶に頼っても仕方がない。大地にとって一番いい学校生活を送れるようにするために、まずは学校の仕組みを知るところから始めなければ。


「学校公開っていうのがあるらしいんだ」
俺は、ソファにいる妻に声をかけた。
「大地の進学先。そろそろ考えないとと思って、調べてみたんだけど」
妻の表情はさえない。
「私も、大地が普通の小学校に行けるとは思ってないよ。でも、じゃあ普通じゃない学校に入れたとしたら、うちの大地は普通じゃありませんって宣伝するようなものじゃない」
その点は、同感だ。本人にとって一番いい道を選ぼう、とは思う。親として、それは間違いない。でも、人から見たら。人はそんな姿を見てどう思うんだろう。仲間はずれにされるんじゃないか、見下されるんじゃないか、そんな不安が、どこまでも消えない。
「確かに、誰が見ても大地が普通の子じゃないってことがばれてしまうと思う。思うけど、だからって親が見栄張って普通の学校に行かせても、大地はつらいばっかりで意味がないんじゃないか」
妻は唇を噛む。
「大地にはどんな学校生活が合っているのか、まず調べたほうがいいと思う。他人にどう見られるかは、それから考えてもいいんじゃないか」
床を見ていた妻がきっと俺をにらんだ。
「きれいごとばっかり」
妻だけでなく俺も決してポジティブにはなれなかったが、学校公開という催しに、妻と俺は一緒に行ってみることにした。


「いってらっしゃい、大地」
幼稚園に大地を送り届け、夫婦二人で車に乗り込む。見たこともない場にこれから足を踏み入れるという緊張で、車内ではほとんど口を利かなかった。
「おはようございます、どうぞこちらに」
学校と名のつくところに車で乗りつけるのは初めてだな。そんなことを思いながら、俺は案内されるままに車を停めた。
学校の建物に入って、まず驚いたのは最新型のエレベーターがあることだった。俺のイメージでは、学校にあるのは薄暗い階段だったのに。
そうか。階段を上がるということができない子どももいるんだ、ここには。
「バギーと呼ばれる大きな車椅子を使う生徒もいますから、総合病院と同じ仕様のエレベーターがついています」
案内の先生が、俺の考えを見透かしたかのように説明してくれた。


「これから子どもたちが登校してきますので、昇降口のほうへ行きましょう」
言われるままに、俺たち夫婦を含めた見学者がぞろぞろと移動する。
「この学校はスクールバスがあります。通学区域が広いですから、バスも結構長い距離を走っているんですよ。ですから、始業時間が地域の小学校よりは遅めですね」
昇降口と言われて狭い下駄箱を想像していた俺は、その昇降口があまりにも広いことにまた驚く。広く明るいそのスペースに、ほんの少しの下駄箱があって、一つ一つにイラストが貼りつけてある。
「バスが着いたら、ここで靴を履きかえられる子は履きかえます。文字ではなく、イラストで自分の下駄箱が分かるようにしてあるんです」
字が読めなくても、そのことを受け入れる学校がある。初めて知ることばかりだ。


「あの」
妻が、案内してくれている先生に声をかけた。
「バスで通う子は、ランドセルを背負ってバスに乗るんですよね?座席に座るとき、自分で下ろして網棚に上げるとか、膝に載せるとか、皆さん自分でできるんですか」
先生はうなずいて笑った。
「ここの子どもたちは、ランドセルは使いません」
「えっ」
横で聞いていた俺も、思わず声が出た。
「いわゆる教科書や鉛筆を使っての学習というのは、ここではあまりしません。それよりも、着替えや排せつ、食事といった生活上の訓練をするのが、この学校での学習ですね」
妻が尋ねる。
「じゃあ、ランドセルは」
「必要ないですね」
先生の声は優しい。
「代わりに、着替えなどを入れてくるために、大きめのリュックサックを用意していただいています。スクールバスには教員が乗車していますので、教員がリュックを網棚に上げるなどの対応はします」
妻と俺は顔を見合わせた。今まで抱いていた学校というところのイメージががらがらと崩れていく。あまりにも、違う。
だけど、その一方で、うちの大地には合うのではないかとも思う。大地は、この学校だったら無理なく受け入れてもらえるかもしれない。


「あ、来ましたよ」
先生の視線の先に、大型バスが現れた。2台、3台、次々にロータリーに入ってくる。
「おはよう!」
いつの間に集まったのか、昇降口には大勢の先生方が立ち並んでいた。その先生方が一斉に手を振り、笑顔で挨拶をしている。
「おはよう!」
停まったバスのドアが開いて、子どもたちが降りてきた。それと同時に、先生たちの熱気が一気に増した。
「おはよう、カイ君!ゆうべは発作がなかったんだって?よかったねえ、今日は元気だね!」
「おはよう!いい天気だね!」
「スーちゃん、おはよう!あら、今日は眠たそうな顔してるねえ。お薬はどうだったかな」
「よく来たねえ、おはよう!」
「ハル君!おはよう!おっと、しっかり足をついてね。気をつけて、さあ、靴を履きかえに行こう!」
「おはよう!おっ、顔色がいいなあ。朝ご飯しっかり食べたかな?」
「おはよう!みっちゃん、おはよう!カズ君、おはよう!」
「おはよう!しっかりイヤーマフしてきて、えらいなあ!」
「おはよう!」
おはよう!おはよう!おはよう!


大勢の先生と、いろんな装具やリュックサックを身につけた子どもたちが昇降口へと動いていく。大きな大きなあたたかい熱気とともに。
どうしてだろう。先生たちの「おはよう」を聞いていたら、涙が湧いてきた。そっと袖口でぬぐおうとして横を向くと、妻も全く同じことをしようとしていた。
「ちょっ、どうした」
「そっちこそ」
お互いから目をそらしながら、二人で笑った。
「何かさ、泣けるよな」
「うん。こんなにあったかい学校、見たことないよ」
あったかい。本当にあったかい。先生たちが一人一人の状態を丁寧に把握していることにも驚いた。そういうところなんだ、この学校は。
「大地には、いいかもしれない」
「想像できるよね、大地があのバスから降りてくるところが」
今度は大地を連れてここを見学に来よう。きっと。


その日の夜、メールを開いて驚いた。今日は驚くことばかりだ。
差出人は、妻の母親だった。
件名「ランドセルは」
本文「ご無沙汰しています。大地は元気に育っていますか。何もお手伝いできずに済まないけれど、もうすぐ小学校に行く大地のために、何かしたいと思っています。ランドセルは、もう買われましたか」


ランドセルは。必要ないですね。
要らないんですよ。うちの大地には、ランドセルが、要らないんです。
言葉が頭を駆けめぐる。妻に伝えなければ。でも、どうする。


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