価値観の認識と再構築[読書日記]

友だち幻想 菅野 仁 著 (ちくまプリマー新書)


 「人は1人でも生きていけるからこそ、人とのつながりを大切にしなければならない」「ムラ的な伝統的作法のような同質性を前提とする共同体の作法から、自覚的に脱却しなければならない」など、著者の主張はこれまでの学校教育で当たり前とされてきた考え方(「友達100人できるかな?」的発想)を突き放す。その主張は正しいと思うし、ぼくにはとてもしっくりくる。

 今のぼくは比較的人付き合いが良く、(おそらく)そんなに人から嫌われないタイプだ。一方で、特定の誰かと仲が良くてよく遊びにいくとか、始終連絡を取り合っているということはない。大人になるとそんなものなのかもしれないが、ぼくにとってそれはとても心地よい。
 ぼくは口癖のように「友達いないんで」と言うけど、よくいろんな人と飲み会をしているので「友達いっぱいいるじゃん」とまわりの人に言われる。けれどぼくにとってはやはり「友だち」じゃない。
 おそらくぼくには「友だちアレルギー」がある。「友だちだよな」「友だちだから」というワードが出ようものなら、悪寒がする。
 それはきっと、そもそも自分が持って生まれたパーソナリティの問題だと思うし、そんな人間が受けてきたあの義務教育時代の弊害があるとも思う。
 それでもやはり、「友だち」と毎日明るく生活を送ることなんてできない。そんな苦行、受け入れられない。
 だけど、人とつながっていたいとは思う。

 著者は「相手を他者として意識するところから、本当の関係や親しさというものは生まれるもの」(p.40)とも言っている。
 つまりは「つながり」は大切にしながらも、あくまで他者は他者だと、自己を満たすためのものを他者に求めないことが大切なのだと思う。
 とはいえやはり、他者とつながることや他者から高く評価されることにより歓びを感じたいと(自覚の有無に関わらず)思うのが人間なのだ。

 だからそのときに、「態度保留」という姿勢、つまり他者を「親しい」「敵」といちいち区別しないような距離の取り方が、必要になるのだと思う。

 そのために、「気の合わない人と一緒にいる作法」、「傷つけあわず共在すること」を子どもたちに教えるべきだと、著者は言う。「気の合わない人と並存する」作法を身につけさせるべきだ、と。まったくそのとおりだ思う。

 さて、このSNS時代にあえて(安易な)意見表明をせずに生きていくことは可能なのだろうか。
ぼくは可能だと思う。方法はシンプルだ。愚衆の流れにのらず、自己の流れを信じること。
 いや、「愚衆」と捉えようとしている時点で、ぼくももうその泥舟に乗っている。そんな偏った認識、安易な否定は捨て去るべきなのだ。
 そのためには、著者の言う「コミュニケーション阻害語」(=「うざい」「ムカつく」「てゆーか」「やばい」など)を使わずに、相手や自分の内奥にある複雑な感情を遮断せずに表に出そうと努力し続けるべきなのだ。

 そんな偉そうなことを考えていたとき、「本当に個性的な子どもというのは、本人は別に個性的にふるまおうとは思っていません。本人としては普通にしているつもりで、それでもなかなか普通にできなくて、人とは違う才能や天分があふれ出してきてしまうものなのです」(p.103)という言葉を読み、ぼくはまた反省した。
 子どもたちには、価値観を決めつけず、融通無碍にのびのびといて、まわりに優しくする。そうやって、あるがままに笑って生きていけるようになってほしいと思っていた。そうなって欲しいが故に、いろんな「あたりまえ」を、ぼくが我が子たちに押し付けていたことに気づかされたから。

 これからは、子どもたちの自立を念頭に置きつつ、彼らのことをよく見て、異質なものもや挫折ですらも、のびのびと吸収していける人になれるように寄り添っていきたい。

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