お酒でサンタクロース【読書日記】

世界音痴 穂村 弘 (小学館文庫)

 普段、家でお酒を飲むのは僕だけだ。
 週に3、4日ほど、晩御飯どきにビールやウイスキーを飲み、アニメを観る子どもたちの横顔を見ていたりする。一緒にわーきゃー言うこともある。
 漫画を読んでいる子どもたちと同じ空間で本を読んでいたりもする。同じく、子どもたちの姿をちら見しながら。

 穂村弘の「世界音痴」も、そうやって読み進めた本だ。
 読みながら、「この人めんどくさいな」と思った。著者の思考は、自己のなかをうねうねぐるぐると掘り続けている。しかし人間とは、そんなものだとも思う。
 それゆえに、そんな人間の思考や感情を見つけて言葉にできる著者は、読み手を魅了する。

 僕はそうやってうっすらと酔いが回った頭で子どもたちの姿を見ていたり、本の世界に浸っていたり、思考を揺蕩わせているのが好きだ。

 先日、僕の両親、つまり子どもたちのじじばばも一緒に、少し早めのクリスマス会をした。
 いつも通りのビールやウイスキーのソーダ割りに加え、ピザやローストチキンもあった。そうして、プレゼント交換をした。
 なんとまあ、わかりやすいクリスマス会だろう。

 プレゼントはサンタクロースからのものではなく、大人たちがそれぞれ買ってきたものだった。
それらは円滑に交換され、大人たちが相互に謝意を伝え合っていた。
 しかし本来、子どもたちにプレゼントを渡すのはサンタクロースの役割である。
 ただ、サンタクロースがいるかいないかについて、おそらく小学校6年生の娘は疑義を生じ始めている。
 弟である小学校4年生の息子がサンタクロースへの手紙を書いたにもかかわらず、娘は何度勧めても書こうとしなかったから。

 だから僕は、程よくお酒が入って弛緩した思考で、「サンタクロースという概念が存在しない世界を想像してみよう」と、娘に話しかけてみた。

 サンタクロースがいない、そんな存在が考えられることもない世界だとしたら、クリスマスにプレゼント交換をしようとしたりすると思う?
 サンタクロースという概念があるから、人は人になにかプレゼントしたいと思うんじゃないかな。
 そういう意味では、サンタクロースはいると思うんだ。
 実在するかどうか、ある特定の「サンタクロース」という現実的なひとつの物体があるかどうか、という問題ではなくてさ。
 そもそも人や物は、現実的な、リアルな存在だと言えるのだろうか。
 あなたはあなたやまわりの人の時間が織重なって今のあなたがいるように、サンタクロースという存在は、あるスタート地点ではひとつの存在だったとしても、多くの人々から信望されたことによって、肥大化し存在しているのではないか。
だから、サンタクロースとは、ある特定の誰かを指すものではなくて、それを信じている人々の内面に存在しているもので、「いる」と言ってもいいんじゃないかな。

 そんなようなことをうだうだと言っていたら、娘が悟りを開いたような顔をした。僕から少し距離をとったような顔。
 そんな娘の顔を見て、「なんか、ごめんなさい」と言いつつも、少し嬉しい気持ちになった。
もう少し年月が経てば、娘とさっきみたいな小難しい話のやりとりができるようになるのかもしれない、と。

 ん?本当にそんな話ができるようになるのかな?
 穂村弘にひきずられて、僕はめんどくさいやつになっていっていないか?
 いや、それも違う。
 僕自身がそもそもめんどくさいやつだから、著者の語る日常に惹かれたんだ。
 そして僕には著者のような柔らかな創造力はない。ただただ、如何ともし難い思考パターンが蠢いているだけだ。
 だから娘がそんな僕の世界を好きになるとは限らない。

 世界のなかで、物事をどう捉えるかは自由だ。
 自由だとは思うが、生まれ持った思考パターンに引きずられるとも思うので、実は不自由だ。
 いずれにせよ、僕の間怠っこしい世界はちゃんと存在していて、娘の生真面目な世界も同様に存在している。
 サンタクロースもきっと、そんな世界で存在している。

 僕はそうやって今日もお酒を飲み、心地よく弛緩した自己の脳内でめんどくさいことを考えたり、大切な大切な子どもたちの大きくなった背中や横顔を見ている。

 お酒とともに、穂村弘の「世界音痴」のような本に出会える日々をとても幸福だと思う。
 「僕だけじゃなかったんだ」と思わせてくれるものは、僕にとっては本だけなのかもしれない。
 けれどきっと、同じように思って読書しながらお酒を飲んでいる人は、たくさんいるのだとも思う。

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