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父親を語るときに村上春樹の語ること

僕がこれを読み始めた時に、多分僕と同じことを思った人も決して少なくはないのではないかと思うのだが、とても引っかかったのは、これは小説なのか事実(あるいはノンフィクションと言うべきか、随筆と言うべきか)なのか?ということだ。

登場人物も地名も全て実名のようだ。そして、村上の父親の生い立ちから死に至るまでが、詳細な年代記として記されている。だから、恐らくこれは事実であり、ノンフィクションであるのだが、しかし、極端な言い方をすれば、村上春樹が書いたものは全て小説になるのだ。

村上春樹というフィルタを通ったものを全て小説と捉えるのは決して誤りではないだろう。そして、それは独り村上春樹に限ったことでもないと思う。

副題は「父親について語るとき」だ。「父親について語るときに僕の語ること」ではない。

もちろん『走ることについて語るときに僕の語ること』と同型のタイトルを付けることのほうが不自然であり滑稽であるのだが、その途中でやめたような不完全な“村上語”が、僕には何か村上の心境変化を語っているようにさえ見えてしまう。

父を語るのに猫の話から入り、最後にまた猫の話が出てくる辺りが如何にも村上春樹らしいのだが、そのページの多くを割いて書かれているのは彼の父親の戦争体験である。

多分多くの読者がまっさきに思い出すのが『ねじまき鳥クロニクル』だろう。それまで彼の作品にはなかった戦争の描写が、しかも残忍な描写が現れて、我々は大いに驚いた。僕とほぼ同じペースで村上の長編を読み続けていた妻は、そこから先が読めず、ついに村上を読むのをやめてしまったほどだ。

あの戦争の話は実は村上のお父さんから聞かされたものだというような話は、当時どこかで読んだか誰かから聞かされたように記憶している。

それが、この本で淡々と書かれている。小説的な技巧は必要がない。ただ、淡々と書かれている。

その多くは父親の死後、村上が詳細に調べて分かったことであるが、父親の所属する部隊が中国兵を処刑した話だけは、父親が、多分ある種の決意を持って息子に聞かせた話として、ここに書き留められている。

一時期、父親と疎遠になっていた時代のことについては、村上は「あまり多くを語りたくないので」と語っていない。自然主義の私小説作家のように、全てを包み隠さず曝け出すようなことはしない。それは必要のないことだ。

最後のほうに村上は書いている:

いずれにせよ、僕がこの個人的な文章においていちばん語りたかったのは、ただひとつのことでしかない。ただひとつの当たり前の事実だ。

それはただひとつの事実でありながら、当然多様な解釈を許す事実である。当然村上の心の中にも多様な解釈があり、それがひょっとしたらいまだに著者を苦しめることがあるのかもしれない。

ただ、直接に苦しみを書くのが村上春樹ではないのだ。ただひとつの当たり前の事実を書くのが村上春樹なのである。たとえそれが他人からすればどんなに突飛に思える事実であっても、あるいはどんなに退屈に映る事実であっても。

村上春樹本人による「あとがき」は、僕からするとどう考えても余計な気がする。作品を物した本人が書く文章としては明らかに書きすぎていると思う。普段の村上ならもっと余白と余韻を残して読者に委ねていたのではないか。

今作の文章の重さが、そんなところに現れているような気がする。

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