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迷える子羊 遭難しそうになった私

「罪深き 迷える子羊よ 入りなさい」
と言っても最近の若い子には通じないのだろうと思うと寂しいですね。40年近く前の人気のお笑い番組で、番組内でNGを出したタレントさんやスタッフさんが、教会で懺悔をするコーナーがあったのです。この番組に影響されたのかもしれませんが、日本の多くの人が「迷える子羊」と聞いて、誰も不思議には思わないのでしょう。

先日読んだ著者(高野秀行氏)の別の本を漁って読んでいます。
「辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦」高野秀行・清水克行共著
その中で、キリスト教や仏教を布教する上で、伝道師たちは、導くべき相手に「迷える羊」であると思わせるために、偉大な力を披露する(薬で病気をパッと治療するとか、綺麗な音楽を奏でるとか)という話が出てきました。

そして「迷える羊」を脚注で下記のように説明しています。

群れから離れてさまよっている羊。迷いの多い無力な者のたとえ。『旧約聖書』イザヤ書五三章、『新約聖書』マタイ伝一〇章・一八章が出典。「ストレイシープ(stray sheep)」の訳語だが、しばしば日本では「迷える子羊」と誤訳される。羊は群れで行動するため、本来「子羊」でなくても群れからはぐれたり、先導する羊が道を誤ると迷走しがちになる。「子羊」の誤訳は、羊の生態・習性を知らない日本人の文化背景に由来する可能性がある。

そもそもヒツジは1歳になるまで放牧には出ません。お母さんヒツジが放牧から帰ってくるまで、家畜小屋の中で待っています。お母さんヒツジが戻ってくる時間帯は、メェー・メェーとお互いを呼び合い探す鳴き声で、ゲル(モンゴルの移動式住居)の周りはとても騒がしくなります。数百頭もの群れの中からちゃんと親は子を探し当てるので、子羊が迷子になることは稀れです。

で、「迷える羊」ですが、ヒツジを風の強い日に放牧に出すと風の影響で戻ってこなかったり、草量が不十分な牧地に放牧に出すと少しでもお腹を満たそうと必死に食べ続けた結果戻って来なかったりして、迷子になることがあります。本当の意味で、周りに影響され、欲に惑わされやすい「迷える羊」なのかもしれません。

迷子といえば、思い出した話があります。

モンゴルのゲルに滞在していた時、夜中にどうしてもトイレがしたくなって、外に出ました。外はかなり暗かったのですが、漏れそうだったこともあり、何も考えず、ちょっとゲルから離れたところまで行って(音が聞こえないくらいの場所まで)立ちションしました。「あー、スッキリした」と思い、ふと我に返ると、真っ暗闇で周りが何も見えません。その日は新月で、月明かりが差し込むことはありませんでした。星が出ていたかは覚えていないけど、とにかく目の前が真っ暗、まさに一寸先は闇。感覚的にはゲルから20歩くらい歩いただけのつもりでした。後ろを振り返れば、ゲルがそこにあるはずだと思ったのに、何もありません。何も感じません。ゲルから少しは光が漏れているだろうと考え、目を凝らすけど、光は全くありません。闇の中にいると恐怖心が増してきて、身動きが取れなくなりました。ゲルから真っ直ぐ歩いて出てきただけだから、回れ右して戻ればなんてことないはずなんです。でも、暗闇が恐怖心を煽ります。下手に動いたら遭難する。たどり着けなくなる。広い草原で遭難する。寒いけど、このまま動かずにいた方が遭難しない。などと、一人で暗闇の中で格闘していました。怖くて30分くらい、うずくまっていました(本当はもっと短い時間だったかもしれないけど、恐怖でとても長く感じました)。怖くて仕方がない一方、ゲルから少し離れた場所で遭難するなんていうのも恥ずかしく、声を出して助けを呼ぶこともできませんでした。暗闇にずっといると精神が研ぎ澄まされるのか、慣れてきただけなのか、何となく人の気配を感じられるようになってきました。こっちの方角で間違いないという確信が湧き上がり、四つん這いになって少しずつ進みます。(神様が見ていたら、何とも不恰好な様子だったと思います。)そうして、しばらく進んでいると、50cmほど先になんとなくゲルがあるのが分かりました。間違いない、ゲルです。ようやく帰還することができました!遭難しなくてよかったです。

みなさんもモンゴルに行った際は、新月の日のトイレにはお気をつけください。懐中電灯は持っていってくださいね。

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