器は大きく、いらないものは流す
実家の廊下に、少し低くなっている箇所がある。これまで生きてきた中で、私は何回もそこで頭をぶつけてきた。しかも、ぶつけるときはいつも結構な勢いでぶつけるので、一瞬立ち止まるくらい痛い。おまけに始末が悪いのが、意識して頭を下げないと通れないわけではない、というところ。タイミングがぴったり合ってしまうと、痛打することになる。
この前もその場にしゃがみ込んでしまうくらい頭をぶつけたのだが、その時に久々にブチ切れた。普段生活している中では、そんなに怒りっぽい人間ではないと思っている。ただ、私が唸りながら壁を殴り付けているところを見た人は、私をどんな人間だと評価するだろうか。物にまで当たる、すごく凶暴な奴と思われるかもしれない。
老人はキレやすい、なんて言われているが、自分も歳を重ねてやっとその気持ちがわかるようになってきた。経験を積むということは、いいことも悪いことも積み重なっていくということだ。一回だったらそこまで腹が立たないことも、二度三度と繰り返されるとムカついてくる。私だって、壁に文句を言ったって意味はないし、殴ったところでこちらの手が痛いだけなことくらいわかっている。しかし、何かしないと収まらないくらいの感情が、私にはもう積み重なってしまっているのだ。
一方で、他人から見たら意味がわからないことも重々承知している。ほとんどの人を人生で一度しか見かけない中で、ちょっとしたことに感情的になっている誰かを見れば、嫌な気分になるに違いない。ましてや、そういうことでイラついた経験が少ない人であれば。私も、自分のことを棚に上げて「大人げないな」と思ったことは何度もある。
他の人には見えなくても、思うようにならない感情が澱のように少しづつ心の中に溜まっていき、何かの拍子にそれが爆発してしまう。自分の人生として、主役を追っているカメラにはそこまでのプロセスが写っているから理解できるだろう。でも、他人の人生からしたら私も袖振り合うだけのエキストラ。過程を追っていないカメラには、ただ意味不明のやばい奴が写るだけだ。
人を評価するときの言葉に「器が大きい」という表現があるが、言い得て妙だと改めて思う。色々積み重なってしまっても、溢れ出てしまわないだけの器があるかどうか。一方で、器がないなら「水に流す」のもありだな、とも思う。器そのものを大きくするのか、いらないものはさっさと汲み出してしまうのか。上手く感情と折り合いがつけられる人は、両方使って自然に処理できているのかもしれない。