プロ野球で活躍することが出来た松坂大輔の度胸

何故、日本球界一の投手、松坂大輔がプロ野球に入り、高卒一年目で活躍することが出来たのか。

そこには技術に何があったのか。

面白い話があったので、紹介させてもらいます。

松坂大輔は横浜高校出身で、高校卒業と同時に投手でプロ野球界に鳴り物入りで西武ライオンズに入団しました。

高校野球界では怪物と呼ばれ、相手チームからは恐れられており、夏の甲子園決勝でノーヒットノーランを達成したことはまだ記憶に新しいと思います。

この記録はまだ破られていないが、プロ野球はレベルが全然違います。

誰もが18歳の高卒ルーキーが、修羅場をくぐり抜けた打者たちをバッタバッタと切って取るシーンなんて見られるはずはないだろうと思っていたはずです。

1998年春のセンバツで優勝、夏の甲子園ではPL学園(大阪)、明徳義塾(高知)など強豪に勝ち、決勝では京都成章(京都)をノーヒットノーランで抑えて深紅の大優勝旗を手にしました。

この年の横浜高校は、前代未聞の高校野球四冠を成し遂げた。

1998年の松坂大輔は確かにすごかった。
私も中学生ながら、感じるものがたくさんあった。

しかし、PL学園時代に甲子園で通算20勝を挙げた桑田真澄選手でも、読売ジャイアンツ入団1年目はわずか2勝に終わっています。

松坂が呼び名通りの【怪物】でも、

当然プロの洗礼を浴びるだろう

と見るものが多かったと思います。

西武ライオンズにドラフト1位で入団した松坂が、プロデビュー戦で対戦したのは北海道に移転する前の日本ハムファイターズ。

当時『ビッグバン打線』の異名をとるだけあって、破壊力はすさまじかった。


1番はいぶし銀の井出竜也選手、2番はのちに2000安打を達成する強打の小笠原道大選手。3番には、1987年に甲子園春夏連覇を果たしたPL学園の主砲・片岡篤史選手が座っていた。


1回裏、井出は148キロのストレートで見逃し三振。小笠原にはピッチャーゴロを打たせ、落ち着いてツーアウトを取った。
片岡に対しては、キレのいいスライダーでカウントを整え、最後は155キロの快速球で空振り三振に仕留めた。
片岡が後ろに倒れ込んだ瞬間、東京ドームは大きなどよめきに包まれた。


このときに、

甲子園を沸かせた平成の怪物

が、プロ野球の壁を軽々と飛び越えた瞬間だった。

5回裏には、外国人選手に投じた内角のボールによって、両軍が入り乱れて乱闘寸前になったが、松坂は冷静さを失うことなく、6回途中までノーヒットピッチング。
8回裏には小笠原に一発を浴びたものの、8回を被安打5、9奪三振で2失点に抑えて、プロ初登板を初勝利で飾った。

松坂はルーキーイヤーに16勝を挙げて最多勝利のタイトルを獲得した。
新人王にも選ばれ、ベストナイン、コールデングラブ賞まで手に入れた。

 高卒ルーキーはなぜ1年目からプロ野球で活躍できたのか?

要因のひとつは、投げること以外の部分がプロのレベルに達していたことです。
横浜高校の当時の部長は、プロで活躍が見込めるピッチャーにはバント処理やけん制など、フィールディングの練習を課すことで知られていました。
デビュー戦の初回、小笠原の打球は、マウンドの右後方(ショート前)に跳ねる難しい打球だったが、松坂は下がりながら簡単に処理した。松坂は

プロ入り前から、フィールディングには自信を持っていた

と語ります。

そして何より、彼を支えていたのは自分のボールに対する信頼だろうか。
松坂は高校時代を振り返って、こう言いました。

『高校2年の秋からは、ストレートが速くなったこともあって、相手のバッターが

『もう打てない』

という雰囲気になっていました。
実際に打たれないし、点も取られない。それからはもう、自分がどんなボールを投げるかだけ。普通に投げれば

『まあ、打たれないだろうな』

と思っていました。バッターと勝負をする必要がなかった』と。

イチローから3連続三振を奪ったあとには、

今日で、自信が確信に変わった

という名言を残したのは、5月16日のオリックス・ブルーウェーブ戦であった。
プロデビュー戦も、イチローとの初対戦でも、完全に相手を見下ろして投げていたんです。


打ち取られた打者は天をあおぎ、すごすごとベンチに下がるしかなかった。

この度胸がすごい。

人を見下すのは簡単じゃない。

この度胸をつけるためには、


1、人の何十倍も練習して自信をつける
2、試合になれば、相手を見下ろす気持ちを持つ
3、投げる、打つ、守るの一つだけでなく、全て努力する

ことが大事だと思いました。

これからの指導に繋げていこう。

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