見出し画像

「私はいかにして宮廷画家になったか」

私は宮廷画家である。それもおそらく日本で唯一の。何故なら日本には宮廷というものが存在しないからだ。強いてあげれば日本の皇室がそれにあたるかもしれないが、私がなりたかったのはあくまでかのベラスケスやアルチンボルドのような「宮廷画家」であったので、私は宮廷画家になるべく他の方法を考える他なかったのである。
それはまだ現代でも王室の残っている海外に移住してそこで修練を積みなんとか宮廷画家になるといったそうした話ではない。まるきりそういう話ではないのだ。

では私が如何にして宮廷画家となったか。そのあらましをここにご披露させていただくとしよう。

まずこちらをご覧頂きたい。
私は2018年に「異相の宮廷」というタイトルの展覧会を開催した。その時に作った三折りのリーフレット型の案内状がこちらである。

異相の宮廷リーフレット

異相の宮廷リーフレット03

そしてその案内状に寄せた自筆の文章がこちら。

異相の宮廷リーフレット02

私は宮廷画家になりたいと思った──しかしその宮廷が無かった。
だから私はその王家の肖像画を描くことで、仕えるべきその宮廷ごとつくることにしたのです。
かつて肖像画には記録という側面がありました。描かれたその人がこの世から消え去っても肖像画はその人が存在していたことの証となったのです。
ここに、ある王族たちの肖像画が並んでいます。彼らの世界では精神活動が肉体という物質的な形となって現れます。形の複雑さは内面の複雑さであり、高貴な生まれであるならその貴さは形となって現れます。精神と物質とが二重化しているのです。
私たちのイマジネーションとリアリティーの境界には両方が重なる層があり、その領域を私たちは幻想と呼びます。展覧会のタイトルにある〝異相〟はまた〝異層〟でもあり、彼らはその領域の住人で、彼らはそこに確かに存在しているのです。
菅原優

ここに書いたように私は自分の仕えるべき宮廷を丸ごとつくることにしたのだ。それもその王家の肖像画を自ら描くことによって。
これは全くふざけた話だと思うだろうか?実在のどこかの宮廷に任命されて宮廷画家になったのではなく、自分が勝手に作り上げた宮廷の宮廷画家というのは。
だが考えてもみてほしい。例えばかつてベラスケスが仕えたという「スペイン・ハプスブルク家」はこの世には既に存在していない。それは人間の歴史の中にその記録だけを残して消え去った。その当時を知る人間もその王家の人々も既にこの世から消え去り、残るのはそうした王家があったことの記録や宮殿の存在。そしてその王家の人々の姿を留めた肖像画ばかりである。
その王家は確かにこの世に実在したものであることは間違いなかろうが、そもそもそうした王家や国というものも私たち人間が頭の中の観念の中に想定したものであるにすぎない。どこかの国の領土がここからここまでであるということになっているのは、人間同士の観念上の取り決めで成立しているものである。それは動物にも見られるような縄張り意識に由来したものであるだろうが、それは極めて精神的に引かれたラインであって、実際に地球上になにか物理的な線が引いてあったりするわけではない。そうした線を見えるように引いたりするのはまさに人間だけである。
つまり王家や国というものは、そもそもが人間の歴史やその営みの中で生み出した驚くべき人間の想像力によって作り上げた架空の存在なのだ。

かつてベラスケスという画家が存在しており、彼が仕えた王家は歴史上の記録として存在している。そして宮廷画家であったベラスケスが描きその当時の皇帝の姿を留めた肖像画だけが今も実在のものとして存在している。
その絵の中の一枚がこちらである。

画像4

通称「銀のフィリペ4世」

彼が仕えたフィリペ4世の姿がまさにベラスケスが描いた肖像画としてこの世に残っている。

そしてこうした肖像画が美術館に並べられ、日本来日!などといって上野の西洋美術館などでも展示されたりして私たちはその肖像画を鑑賞したりする。
「なるほどかつてハプスブルク家という王家が存在しフィリペ4世という皇帝がいた。そしてその皇帝の肖像画を描いたのがベラスケスという宮廷画家である」と。
私たちはそのようにしてかつてその宮廷があったことを信じて疑わない。誰がその“事実”を疑うことができるだろう?

私が目をつけたのはここである。

案内状にも書いた通り、かつて肖像画は記録としての側面があった。肖像画が存在するということはそこに描かれた人物が存在したことの証となるのである。それが肖像画の持つ「機能」のひとつであるだろう。
つまりある王家の肖像画さえ目の前に現物として存在しているのであれば、その宮廷もまた存在することになるのである。
その王家は他の実在したとされる王家もまたそうであるように、人間の想像力によってその観念上にイメージとして存在させているものであり、その宮廷はこの世界の現実と幻想とのその「あわい」に存在するのだ。その「あわい」は非常に微妙な領域である。存在しているとも言えるし存在していないとも言える。まさに虚実の入り混じる不可思議な領域なのだ。にも関わらず私たちは常日頃からその領域を特に疑問も持たずに扱っているのである。例えば私たちが「日本が〜」と言った時点で、その虚実の世界を私たちは難なく使いこなしているのだ。
そうであるならば、私が仕えるべき宮廷もまた、実際にその王家の肖像画が現存してしまうのであれば尚更に、確かに存在するものと見なされるはずである。

かくして私はかのベラスケスの描いた肖像画を大いに参考にしてほぼ等身大の一枚の皇帝の絵を描き上げた。
それがこの一枚である。

皇帝

参考にしたベラスケスの絵では、皇帝フィリぺ4世の手に紙片が握られていて、そこにはベラスケスのサインが書かれているらしい。

画像6

私の絵ではここを皇帝の勅令書(皇帝のお触れなどの命令が書かれているもの)に見立ててそこにこのように記した。

勅令書

「Señor Yu Sugawara Pintor de Corte(宮廷画家・菅原優)」と。

私はかくして宮廷画家となったのである。

肖像画が現実に存在している。そしてその肖像画に描かれている皇帝が私を宮廷画家だと任命しており、なおかつ実際に私がその皇帝の肖像画を描き上げたのだ。どこからどうみても私が宮廷画家であることの要件がここに揃っていることだろう。

以上が私が宮廷画家となった顛末である。

さてここまで書いておいて、さらに私は何故このようにして宮廷画家にならなくてはならなかったのか、或いは何故こんなことを思いついてしまったかについても是非書いておきたい。

宮廷画家といえば、それこそ産業革命/市民革命以前までのかつての王政の時代にあっては、当時の最高権力によってその地位が授けられものとして、画家ということで言えばその技量なりなんなりが最高度に認められてたその証であるかのようなニュアンスがある。ただそうした政治の世界というのは権謀術数や人々の思惑が渦巻き煌びやかなだけではない陰惨やるかたない世界であることは今も変わりがないだろう。
ただ私のように子供の頃にテレビゲームのドラゴンクエストを遊んで育ってきたような人間にとっては、王家というだけでゲームに出てきたようなファンタジー的なものをイメージして「そのロマンあふれる世界」にすっかり魅惑されてしまうのであり、また美術の歴史にでてくるような古典絵画のグランドマスターたちがことごとく宮廷画家であったりしたのを知って、自分も宮廷画家になれたらどんなに誇らしい気持ちになるだろうかと淡い妄想を抱いてしまう次第なのである。

そして曲がりなりにも絵など描いている以上は、何とかして売れたい、認められたい、全世界の人々から褒めちぎられたい!と、芸術家たるものそんな俗世間的な心情などは超越しているものだと意気込んでどんなに平静を装っていようともその心の中では密かにそうした想いが渦巻いているものである。
ただなかなか思うようにいかないというのがこれまた人生というものらしく、そうした自意識は行き場を失い悶々とその日その日を送ることになったりする。そんなかくも哀れに捻くれ拗ねた心を宥めるのに「私は宮廷画家である。」というこの“事実”は私の心を落ち着かせる効果が確かにあるのである。
「まあ、俺は宮廷画家にまでなったからよしとしよう」という具合に。

『おお、悲しいかな、絵を志しそして思うようにいかなかったその嘆きの中にある我が同士たちよ!』

過剰に肥大した自意識というものが、このようにして完全な自作自演をやってのけ、まったくの“独力”でその自分だけの世界で自己完結的に宮廷画家になって自らほくそ笑んでいるというのは、「自我」の肥大した現代人の悲しむべき症例のひとつとしてみることもできるだろう。
この“独力”というのがまたミソである。私たちはなんでもかんでも自分の力でなんとかすることを何となく社会から求められている。たが本当はこの人間世界というのは持ちつ持たれつ人に迷惑をかけつかけられつつできているものであり、この「自分で何とかしろ!」はある種現代人の呪いのごときものですらだろう。そんなふうにして私たちは分断され結果孤独に沈むのである。
他力本願という言葉もまた恐らくは本来的な意味が歪められていて、それは「他人の力ばかりを頼って本人は何もしないこと」への諌めの言葉ではなく「自力だけで何かできると思うな!」という思い上がった自意識への諌めの言葉ではなかっただろうか。そのような間違った意味を受け取ってしまうと「私は“自力”で宮廷画家になったのである(エッヘン!)」という人間がこのように現れてしまうのである!

どちらかと言えば私はこうしたことを言いたいところがある。私の絵は幻想リアリズム系のカテゴリーに入るだろうが、ある意味ではこの「異相の宮廷」という展覧会は「展覧会というもの/展示というもの/作家活動というもの自体」をモチーフとした、現代美術的な文脈で言えばシュチエーションアートでも言えるものないだろうか?ただこれをどう言おうが滑稽さの中に崩れさるものではあるだろう。

とはいえ私がここで書いたことは、だたの一人の人間が考え出した滑稽さ以上の意味も確かにあるのである。
それはここで書いてきたように、私たちの生きているこの世界というものは「虚」と「実」の入り混じった世界なのであり、仕事に忙しく追われている現代人が感知しなくなってしまっているようなある「奥行き」があるものなのだ。それはかつての人間が知っていたであろう「豊穣な世界」であるはずなのである。それは月並みに言えば“精神的な豊かさ”であるだろう。その精神的な豊かさで心が満たされていたならば、誰も無理に自分が宮廷画家になろうなどとは考えなかったかもしれない。しかしその一方でこうしたことを考えてしまうこともまた、人間にはそうした想像力による豊穣な世界があることを表現していることにもなるはずである。

私が描き出したあの「異相の宮廷」はこの宇宙のどこかに確かに存在している。
そして私はまぎれもなくその宮廷の宮廷画家なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?