例えること-オジサンの不在-について

関西という土壌で笑いをとること。
それは、例えるという技法を体得することにかかっているのかもしれない。
つまり目の前にあるものをいかに似たようなイメージに変換するか、の取得だ。
練っていたフレーズを出すのはもちろんのこと、即興で言えたときの気持ちよさは何ともいいがたいものがある。
とにかく、即興的な演出ができれば良い。これを「大阪的精神」とでも名付けておこう。
例えば自分自身を振り返ってみても、便の出にくさ語る友人に「税関やな」と例えられたときは気持ちよかった。ウケたはずだ。鳥貴族だった。

6月14日テレビ朝日『ナスD大冒険TV 特別編 1人ぼっちの無人島生活 2時間SP』を観ていた。ナスD(兵庫県出身)が素潜りで次々と魚のオジサンを捕らえる。
オジサンの特徴を、無防備で動きも鈍いし色も目立つ、それでいて全く毒も持ってないとOAにして8秒述べた後「オジサンが身を守る手段はひとつですね」「加齢臭がする」というセリフをきっかけにOAで約19秒、人のオジサン(以下、おじさん)に話がスライドする。

以下テロップ書き起こし

大体 癖ありますよ オジサン
どんなオジサンも
基本 オジサンは皆 癖を持っていて
ひと癖あるんですよ
なぜかって言うと長く生きてるから
オジサン祭りだな

三匹のオジサンが串刺しになり、三列に参列する映像

オジサンばっかりだな
新橋ですねここ(←このセリフはカメラマンだと思われる)

オジサンという言葉を軸に、魚のオジサンから、人間のおじさんにイメージをスライドさせる。
オジサンがおじさんに変化した。ユニークだと思う。人は、魚をみて人間を語ることができる。
→このズレを言語的な表現で展開させていけば、例えば一人ごっつ「出世させよう」

しかし、ここに例えの難点が確認される。
目の前の魚が、不在になってしまう。つまり、魚を語ったようでいて、最終的にオジサンについて何も語っていないのだ。

確かにナスDは冒頭オジサンの話をしていた。
しかしその2倍以上の時間が、おじさんの説明に費やされてしまう。

ただこれはバラエティ番組だし、例えも純粋な例えとはいえないかもしれない。
では、食そのものの魅力を語る食レポだったらどうか。
例えば、こんなグルメリポーターを想像してみる。料理の感想に「肉と野菜の社交ダンス」「枝豆の縦列駐車だ」というリポーター。
おもわず笑ってしまう。見出しのような面白さ。ぜひ一面を飾ってほしい。
でも、料理は・・・?

もしリポーターの実績が例えに集約されるのであれば、リポーターは料理について何も語らなかったーー例えのダシになったーーことになる。
料理人がリポーターの表現を受け取って、何かしら気持ちが芽生えることもあるだろう。
であるならそれは、コメント自体のユニークさと、リポーターの有名性によって。
←おじさんが同じ技法を使った食レポと比較してほしい。有名であることの重要性がわかる。

例えが悪いとか何とかいいたいのではない。
目の前のものが例えられたとき、ただそのものについての語りえなさが残ってしまう。

この「大阪的精神」は軽快なステップで柔軟にイメージを移動していく。
が、同時に実存の不在を感じさせる。