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学びにおける、登場人物と場の分化

少し前にFacebookに投稿した内容なのだけど、いろんな話題に広がるきっかけになるなと思い、こちらにも載せておこうと思います。


〈意図せず場に埋め込まれた〉学習というのが起こりにくくなると思う。
学習が、より意図的/意識的なものになっていく。

教わる側は、〈意欲による選別〉にさらされる。
教わる側自身が、意図的/意識的に学習機会へと関わっていかなければ、学びが生まれない。
あとから振り返ったら《なんとなく》学んでいた、という、組織が暗黙に持っている底力に期待できない。

教える側には、〈教える技術〉が必要になる。
〈教えようと思って教える〉ことになるので、その〈教える〉は、意図的/意識的なものになる。
意図的/意識的にやろうとするので、〈どうやったらいいのだろう?〉という問いが起きる。

意図的/意識的な学習機会には、2つの方向性があると思う。

《なんとなく先輩の仕事を見て覚え》ていたのを、意図的/意識的な視覚化へと変換して、眼前に突きつける。
視覚化を突き詰めると、VRやARを用いた体験化につながる。
《身体的な学習機会》を胸元に突きつける。

もうひとつの方向性が、〈断片化による埋め込み化〉。
いわゆるマイクロラーニングで、学習の最小単位を小さくすることで、移動の中やベッドの上やトイレの時間という、日常の雑事のなかに学習機会を埋め込む。
意欲的な学習者は、それらのコンテンツを、〈クオリティとアベイラビリティ〉の両面から取捨選択する。

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