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「人の支援がしたい」と言う若者が苦手な理由

「人を支援したい」と言っている人があまり好きではない。もちろん、年齢にもよるのだけれど、とりわけ若いうちから、「困っている人たちを支援したい」と言っている人に対して、共感を得ることがほとんどない。
 
昔からそう思っているのだけれど、なぜそういう感想を持つのだろう、とずっと疑問だった。人の役に立ちたい、というのは人間がもつ普遍的な感情のはずだ。

僕がよほどひねくれているのだろうか?
 
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まず最初に感じるのは、そういうことを言っている人から「上から目線」を感じるところだ。例えば、それを言っている人が十代、二十代だった場合は、「人の支援」なんて気にするような段階だろうか、と思ってしまう。
 
比較的暇だった大学生の頃はともかく、就職してからは、僕は自分の仕事、自分のプロジェクトを進めることで精一杯で、「人の支援」なんて気にする余裕がなかった。三十代になった今でも、そんなに大それたことは言えないな、と思う。

現役を退いたとき、それまで培ったものが別な形で社会に還元できることがあったとしたらそれはそれでいいことなので、そのときにあらためて考えたいとは思うが、少なくともそれは今ではないな、と思う。

「人を支援したい」という心の中には、主語が「自分」じゃないところが嫌なのかな、と思った。支援するということは、支援する対象が別にいて、自分は裏方に回る、ということだ。

それはそれで結構なのだけれど、何か課題を解決したいのであれば、「他人を支援」するのではなく、「自分が主体になってやればいいのに」、と思ってしまう。若ければ若いほど、のちのち社会の中枢になれる可能性は高まる。「支援」するのではなく、「参画」すればいいのに、と思ってしまうのだ。
 
モヤモヤする要因は他にもある。「人の支援をしたい」と言っている限り、反対意見がほとんどでない、という点だ。「自分のために生きたい」という人に対しては批判も集まるかもしれないが、「困っている人を支援したい」という人に批判が集まることは少ない。だから、活動内容がどうあれ、手放しで褒められることが多い。

でも、経験が浅いうちから本当に人の役に立てることは難しい、と思う。なんの戦闘訓練も受けていない若者が戦場に行っても、特に人の役に立つことはできず、足手まといになってしまう。本当に「誰かを支援したい」と考えるのならば、まずはいろんな経験や知識を身につけて、実力をつけるのが先なのでは、ということを思う。順番が逆なのでは、と思うのだ。
 
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たとえば1000万円をもらって、「これを人のためになることに使ってください」と言われて、有意義に使えるかどうか? かなりの社会経験を積まないと、まとまったお金を手にしても、それを有効に活用できることは少ないだろう。それを知るために、地道に社会で訓練を積む、というのは必要だ。
 
もちろん、人の支援をしたいといって、ボランティアに参加したり、実際に手を動かしたりしている人を批判するつもりはない。問題は、そういうことを前面に掲げながら、実際には自分の手を動かさない、汗をかかない人々だと思う。

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