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脳のジジイ化への第一歩

新しく出てきたものについて、「未体験」のものが増えてきた。年末になるとその年を振り返ったりするけれど、その年だけ、世間で異常に流行したりするものがあったりする。たとえば、タピオカとか(今年だっけ?)。タピオカミルクティーなんて買ったことがない。さすがにもうブームが終焉した感もあるが、街を歩いているとまだタピオカ屋があって、並んで買っている人もいるので、まだギリギリ体験できる。
 
タピオカについては、あれはほとんどが台湾企業のように観察されるので、日本進出のプロモーションの一環として無理やりブームをつくったんだろうな、と思う。僕は2013年から2015年まで中国の上海にいたことがあるのだが、そのときに台湾系の、ああいうスタンドのような店舗でタピオカミルクティーをよく売っていた。それが大挙して日本にも流れてきたんだろうな、と。よく知らないので滅多なことはいえないが、バックについている資本はひとつなんじゃないか、というような気もする。一気に複数の資本が日本にタピオカ屋をつくるというのも考えにくいし。
 
とりあえず金があれば、流行ぐらい簡単に作れるのではないか、と思う。みんな、実際、買うものはなんでもいいのだろう。とりあえず新しくて、ちょっと話題性があれば、なんでも構わない。世の中にはモノが溢れていて、どれも性能としてはある程度まともなので、もはや差別化要因がないのだ。僕なんかはできるだけ安いものがいいと思ってしまうけれど、その他にあるのは「話題性」だけなのかな、と。

と、ここまで分析的に書いてきたけれど、こういう風に、触れもしないで分析するのはよくない傾向だな、と思う。年をとってくると、だんだん理屈っぽくなってきて、「これは以前に見たあれに似てるな」とわかってしまい、手を出さなくなる。実際に、多くの「新しいもの」は過去の製品の焼き直しだ。本当に新しい機能が付与されている場合もあるが、ただ焼き直しただけ、というものが多い。それを見ると、見た瞬間に、「ああ、あれと同じだよな」と。そこで手に取ることをやめてしまう。
 
僕はいまの時点でそういう傾向にあるので、これはもっと加速していきそうな気がする。僕はツイッターがサービスを開始したときにはまだ大学生だったので、ツイッターをやりはじめたのだが、ツイッターがもしいま登場したとしたら、やるかどうかはわからない。ブログでいいじゃん、と。
 
もうすでにインスタグラムの時点で存在意義がよくわかっていない。写真をアップするならツイッターでいいじゃん、となっている。さらにそのあとに出てきた、たとえばtik tokとかになると、完全に理解を超えている(中華系の資本だから食指が動かないというのもあるが)。

とりあえず新しいものが出てきたら、買ったり、やったりしてみるのもいいかな、と最近は考えている。同じことは人間関係にもいえる。はじめて会う人でも、会っていきなり「この人はあの人に似ているな」と思うことが増えてきた。悪くいうと、初対面でも人を分類するようになってしまった。

でも、しばらく付き合っているうちに、その人の個性というか、特徴みたいなものが見えてくる。やがて、全然違う、その人だけの特性がわかってくる。そういうのは、最初に「この人はこういう人だな」というフィルターをかけてしまうと見えない部分だろう。これが「老化」なのかな、と。
 
触れもせずに「たぶんこういうものだろう」と予測するのは老人だ。安易に決めつけず、脳を若いままに保っておきたい、と思う。(執筆時間12分58秒)

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