AIは本当に人間を楽にするのか? という問い
僕の趣味は将棋だが、そもそもなぜ将棋に興味を持ったのかというと、AIが早くから浸透していたジャンルだったから、というのが大きな理由だったりする。
僕が将棋AIに興味を持ち始めたのは2013年ごろだ。が、実際に将棋を指し始めたのはここ数年のことなので、将棋AIに興味を持っていた期間の方が、将棋を指す期間よりも長い。ちょっと珍しいタイプかもしれない。
将棋を指す前から、AI vs 人間の勝負の話題は結構追いかけていて、本も読んでいた。このあたりの話題は将棋が指せなくても面白い。また、「三月のライオン」など、将棋を題材にした漫画が好きだった、というのもある。
今では生成AIがこれだけ発達してきているので、将棋界とAIの関わりが生成AIと実社会の関わりと類似してきているところがあり、学べることは多いと感じている。
*
将棋界の今と昔を比較してみると、とても興味深い。将棋AIはもはや人間よりも強いため、将棋を学ぶ際、AIを使うことで昔よりもはるかに効率よく学習できる。
しかし、だからといって将棋棋士が楽になったかというと、まったく逆だ。今はかつてないほど将棋棋士たちは勉強に追われている。AIがあるため、「際限なく勉強ができてしまう」からだ。
超高性能なパソコンを使って、難しい局面の研究に明け暮れる日々。研究を怠れば、みっちり研究してきた相手に負けてしまう。そういう世界になっている。
大昔は将棋を勉強するにも限度があった。そもそも他のプロ棋士が対局した棋譜なども、インターネットのない時代には入手が難しく、将棋会館などでファイルされているものをコピーして持ち帰るなどの手間が必要だった。
情報が限られていた分、勉強方法も自ずと限られていた。対局前には精神統一をするなど、心の準備に重きを置いていたらしい。そういう棋士もいるかもしれないが、「それだけ」は今では考えられない話だ。
*
こう考えると、AIは本当に人間を楽にするのか? という問いにたどり着く。AIがあれば人はものを考えなくなる、という意見もあるだろう。例えばChatGPTに宿題をやらせれば、どんな難問でも解いてくれる。しかし、ChatGPTがあることが前提の社会では、解かせる問題そのものが難しくなる。社会のレベルが底上げされると言っていい。
当たり前だが、それでも噛み砕いて説明させて理解しようとすれば、どこまでも深掘りができる。好奇心が強い人であれば、AIと無限に会話し続けることになるだろう。
AIの知識量は膨大であり、正直なところ、今のChatGPTに聞いた知識が正確である保証はないものの、その精度は年々向上していると感じる。特に最近のChatGPTは、自分が確認できる範囲では非常に正確な回答を返してくれる。
その進化スピードは目を見張るものがあり、今後数年の変化を想像するとおそろしい。どこまでも知識を持ち、どこまでも語り合えるのがAIの魅力であり、怖さでもある。
*
僕は現在、新規事業開発を学ぶ大学に通っていて、ビジネスプランを練り上げるという課題があるので、ChatGPTをフル活用している。といっても、ChatGPTに全部任せるというより、対話を通じて議論し、内容を深めていく感じだ。
かなり長く一つのスキームについて話し合い、その結果、まるで「二人で」作り上げたようなビジネススキームが完成したこともある。ChatGPTを使えば、ほぼ無限に深掘りができる。例えば、一度完成したスキームをベースに、役員を想定して弱点を指摘してもらうなど、どこまでも考えを練り込むことができる。
結論として、AIがあると確かに楽になる側面はある。しかし同時に、AIは人間の脳のスペックを上げるだけでなく、より多くのことを求める世界に導いているようにも感じる。ChatGPTを使いこなしている人は、使いこなしていない人よりも多くのことができるようになっている。
これが全員にとって当たり前になれば、今度は自分の脳の理解力や記憶力が試される社会がやってくるだろう。その社会が楽かと言うと、将棋の世界と同じく、おそらく厳しい世の中なのだろう。
情報が世の中に行き届かず、一部の人しか持っていないような社会より、現代社会のほうが便利な世の中ではあるが、その分「頭を使う人はとことん使う」のだろうな、と。優秀な人とそうでない人の差は開くばかりだろう。
あなたはどう思いますか?