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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 後編 #031

 やはり瀧本は、細かい事情を聞かずに承諾してくれた。凛子は安心して思わず表情がゆるんだ。どんなに小さなことでも、人に頼みごとをするとき、相手がそれを受け入れてくれるかどうか、不安になる。そして、それが断られたとき、その内容の重要さに関わらず、自分をまるごと否定されたような、そんな、心もとない気持ちになる。その逆に、相手が自分の頼み事を何も言わずに受け入れてくれたとき、まるで自分のすべてを受け入れてくれたかのように錯覚してしまう。凛子には、もう瀧本に頼るしか道は残されていなかった。
「ここの上の階が僕の住居になっています。既に色々なものを飼っているので、飼育に必要なものは揃っていると思います。良ければ、僕の部屋でお話しませんか。この魚の世話のやり方も、そこでお聞きします」
 凛子は少し驚いた。瀧本は、このビルの上階に住んでいる、という。ここは繁華街のはずれにある古ぼけた雑居ビルで、マンションではない。住宅用の設備はあるのだろうか。
 瀧本は、少し仕事を片付ける必要があるので、待ち合い室で待っていてくれないかと言った。『魚』は、あとから持って行くからそこに置いておいてくれ、と付け加えた。凛子が診察室を出て、待ち合い室に行くと、そこには瀧本のアシスタントだという美穪子がカウンターの椅子に腰掛けていた。カウンターの中には大きなディスプレイのパソコンが設置されており、美穪子はそれを眺めている。サボっているというわけではないが、どうも仕事をしている感じではなさそうだ。凛子が診察室から出てくるのを見ると、顔をあげて、細く微笑んだ。精神状態が不安定な人に満面の笑みを向けると、それだけで相手に不安感を与える可能性があり、それを避けるためにこうやってうすい微笑みを身につけるのかもしれない、と凛子は考えた。
「大変お疲れ様でした。今しばらくお待ちくださいませ」
 美穪子はその表情のまま、抑揚のない口調でそう言った。そして、凛子に向けた微笑みを、無表情の一歩手前まで戻しながら、ふたたびカウンターのパソコンのディスプレイに目を落とす。そのまま、人形のように固まってしまった。まるで、精巧に出来たアンドロイドみたいだな、と凛子は思わず考えた。先輩の専攻は情報工学で、専攻しているテーマは画像処理関係だったが、関連する研究室で人工知能とアンドロイドを研究し実際にプロトタイプをつくるところもあった。凛子は先輩に連れられて、実際にその研究室に行き開発中のアンドロイドを見せてもらったことがある。要するにロボットなのだが、配線がむき出しで、胸部から上しかなく、顔の部分だけ精巧に作られている。こちらの存在をカメラで認識し目で追い、そして、シリコンの皮膚を婉曲させて、微笑む。その様がいかにも不気味で、凛子は怖くなった。
 先輩は、それを見せながら、いわゆる「不気味の谷」だね、と教えてくれた。人間とは似ても似つかないものに対して不気味さや恐怖を感じることはないが、人間に似せれば似せるほど、本物の人間との差異が気になって、それが不気味さに繋がるのだ、と説明してくれた。だが、ある点、つまり人間とほぼ同じところまでアンドロイドが近づくことができたら、それに対して不気味さを感じることはないのだ、と言った。美穪子を見ながら、この人は間違いなく人間だが、精巧に出来た未来のアンドロイドだと説明されても、きっと自分は信じ込んでしまうだろう、とバカなことを考えた。

(つづく)


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